終わりのある地獄

子どもの頃、『地獄』という絵本を読んだ。

釜茹でとか針の山とか色々あるが、もし地獄に行くならどの拷問がいちばんマシか、考えたことはないだろうか。私はかなり真剣に考えて、どれもイヤだが最悪なのは「運営サイド」だという結論に達した。真面目で融通のきかない子どもにとっては、「悪いこと」ニアリーイコール「人に迷惑をかけること」だったので、トゲトゲのついた棍棒で人を殴ったり、子どもたちが積んだ石を崩したりしてる鬼には、あとで地獄以上の怖ろしい刑罰が待っているはずだと思った。

仏教において人が鬼にクラスチェンジするものかどうかは未だに知らないが、死んだら地獄に行きたくない、鬼になるのはもっとやだ、というのが臆病な子どもに定期的に訪れる恐怖だった。

 

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を観て、久々に「鬼案件」を思い出した。今は、鬼に怖ろしい刑罰が待っているとは思わない。もし鬼に怖れる心があるとしたら、休みも終わりもなく人を傷つけ続けることこそが最大の罰ではないだろうか。

そんな風に考える人にとって、主人公の置かれた状況は最悪だが、彼を取り巻く人々は優しい。誰かが喜んでいようと絶望していようと、世界は「笑い」にも「悲しみ」にも振り切らないものだ。肉親の臨終の場面だろうと、いや、だからこそ、とぼけた笑いが生まれたりする。彼や彼女の苦しさを柔らかい布でくるみ、その上からそっと撫でるような、つくり手の慈しみを感じる。

しかし、優しさを享受できない心境の人間には、そんな状況こそがしんどいのかもしれない。絵本にあった「地獄」は、罪を犯してしまった良心にとっては親切設計だったのかもしれない。

仏教の「地獄」に行った人は、罪を償ったらまた生まれ変わるそうだ。この映画を満たす優しさも、かすかな希望につながっている。

 罪にも悲しみにも終わりはないけど、地獄には終わりがある。私たちはいつかそこから旅立たなければならない。

 

こんな想像をする。

もし、誰かが死のうかと思っていたら。

夜更けの部屋で一人、このまま朝が来ないで欲しいと願っていたら。

彼や彼女がつけっぱなしにしていたテレビに、この映画が流れて欲しい。

この映画はエンドロールも素敵だ。終わりの終わりまで味わって欲しい。

そうして、朝が来るだろう。静かで冷たい朝だろう。

喜びにも悲しみにも留まることのできない私たちを、揺りかごのように包むだろう。

 


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