for meな新海ワールド (『天気の子』感想)

(『君の名は』『天気の子』のネタバレあります)

 

研修に明け暮れて冷房で腹を壊し、腹巻きが手放せなかった夏の日の2019……遅ればせながら、お盆休みに『天気の子』を観ました。

すごい。びっくりした。これは『君の名は』とはぜんぜんちがう。

ずっと新海監督が好きですべての作品を見ている人は一連の流れの中での分類があるだろうけれど、「皆観てるから観てみよう!」くらいのミーハーな気持ちで『君の名は』『天気の子』の2作だけ観に行った私にとってはこの2作品が似ているようで全然違うように見えて、そこが「すごい」と思った。

 

まず『君の名は』、見慣れた空や新宿の街が一気に輝き出す映像美や音楽と物語が連動する気持ちよさは、もう1800円払って全然前世余りある感じだったんですけど(ちなみに普段の私は映画に1100円までしか払わないし1100円も結構痛いです)、お話はnot for me だった。

どう言い繕っても恋愛音痴の僻みなので、この際ストレートに言ってしまうと、「近頃の若いモンは村ひとつ巻き込まなきゃ恋愛のひとつもできねぇのかよ」みたいに毒づきたくてしかたなかった。※1 ※2

 

自分でもおかしいと思います。お話の流れはまったく逆で、瀧くんは三葉ちゃんを救おうとする過程で、消えるはずだったたくさんの命を救ってくれたんだから(※1 あと『近頃の』も語弊がありますね。むしろ私が若い頃の方がいわゆるセカイ系全盛期で、そこら中で世界を敵にまわしたり中心で愛を叫んだりしてました)(※2 あと糸守は村じゃなくて町)。

にも関わらず瀧くんや三葉ちゃんに「お前らの惚れた腫れたで大騒ぎさせやがって……」と苦虫噛み潰してしまうのは私の性格が悪いからなんですが、無理やり『君の名は』サイドに責任を押し付けるとしたら、「全滅するはずだった村を救う」という大騒ぎが「何もしてないのにある日突然女子のおっぱいもみ放題になる→その上その娘と恋に落ちる」という高校生の妄想に組み込まれてしまっている感じがしたからではないかなあ。

いやいいんですよ、高校生の妄想>大災害で!映画なんだから!!

何度も言いますがnot for me なだけです。日本中のいい恋してる人たちや、恋を忘れぬ瑞々しい感性を持った方々にこのお話は響いたことでしょう。私だって瀧くんも三葉ちゃんも大好きだよ!いい子だもん!晴れて挙式される折には三くらい包んでもいいかなって思ってる!(さっきから愛を金額でしか示せない、汚れた大人ですみません。しかも金額が微妙で……)

 

それで『天気の子』です。前回以上にガキンチョな主人公どもが、おばちゃんの邪推なんて軽々飛び越えて、はっきり言っちゃいましたよ。

俺達の恋>大災害だ!!って!!

なのに今度は思えちゃうのね、「そうだ!!」って。

それはどうしてだろうって、お盆からこっちずっと考えてました。胸(と腹)の痛みと共に……

 

『天気の子』でも『君の名を』でも東京の街が写実的に描かれてるけど、『君の名は』の東京のキーワードが「キラキラ」「裕福」「リア充」だとしたら、『天気の子』のそれは「イライラ」「貧困」「居場所がない」。

子どもの生活苦を描くのが上手い。リアリティとかじゃなく、「貧困と切っても切れないある種の闇は排除した上での、映画館でお金使えるくらいの人が共感できる貧しさ表現」ではあるのだけど、貧困が大きく影響しているであろう陽菜ちゃんのキャラクター造形が、すごく痛々しい。

話がそれるようだけど、作中のナレーションにあったように、「天気」というのは一番身近で、お金のかからない割に「エモい」娯楽。空の色や夕暮れ、嵐の訪れやふと見上げた虹に、私達はさまざまな形で心を動かされます。

陽菜は「晴れを提供する」エンターテイナーとして稼いだけれど、その前に彼女が性を売らされるか、それに準じるような仕事をさせられそうになっていた描写があります。「天気」と「セックス」は「元手の掛からない娯楽」という点において相似である、と言えます。

その後、天気を変えることは売春同様に『一見元手がかからないように見えるが実は心や体を消費する行い』であるという事実が提示されます。「気候」も「性交」も、ヒト一人が一方的な娯楽として享受できるものではない。

 

帆高と会う前に陽菜が性的な仕事をしてたとかしてないとかいう議論をするつもりはないけれど、彼女はその気になれば自分を投げ出してしまえる子です。

陽菜ちゃんは悲しい。年齢を18歳と偽ることも、ホテルでお風呂から出てくる時に「お待たせしました」と言うことも、食材をやりくりして男たちにおいしいご飯を作ってくれることさえも、私にはなんだか悲しく思えます。

歳が若いことや「女らしい」ことは、物語のヒロインとしてなんら珍しいことではありません。自己犠牲的なことも。

自分の身を削っても誰かに喜んでもらえるほうがいい、自分の身を差し出してみんなのために「人柱」になるのが正しい道である、という価値観は、悪いものではないかもしれない。自分を差し出すことを悪いことと言い切るのも、一方的な価値観なのかもしれない。ただ、15歳という年齢のヒトにその決断をさせるのは、悲しすぎると思う。

そういう価値観に「ヒロイン」を追い込んできた物語はいくつもあります。そして、そういう物語に疑問を持たずに漫然と消費してきた「私」というモンスターがいる。さらに、物語冒頭の陽菜がそうなっていたかもしれないように、心や身体を搾取される現実の子どもが存在します。そういう世界をどうすることもできず、あるいは今の所まだどうにかできずに、私達は生きている。

つまり、この物語は"for me" です。誰にとっても"for me" になり得るから、帆高の決断には陽菜だけでなく、映画を観ている人の頭にかかっていた鎖を解き放つような力がある。そこに『映像の力』『音楽の力』が結集したときの説得力と来たら。カタルシスときたら。

もう、なんかアレ、すごいアレですよ……アッセンブルですよ!新海キャップになんかいろんなものが集結した感!!わたしの言ってること伝わってる!?伝わってないね!? すみません!!

 

文章が下手過ぎて多分伝わってないんですけど、あの、劇中歌の「行けばいい」というとこに私は涙しました。ほんとになんかもう、あの子どもたちが、古い頭が考えるタブーや何かのずっと向こうへ、良いこととされてるものよりずっと遠くへ、行ってくれたらいいなと思います。

かといって彼らの敵や味方になる大人たちにも「かわいげ」を忘れないキャラ設定もすごくよかったです。「行けばいい」を都合よく解釈しちゃダメなんだな、と。

まあ世代なんで「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」って言ってるばっかりなんですけど、逃げずにちゃんと大人をやろうと思いました。

(夏休み最終日に急いで書いた読書感想文みたいなとってつけた感……)

 

 

 

 

 

 

 


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