10連休日記

平成31年4月27日

 

後から読み返すと自分が楽しいので、日記をつけておくことにする。

今日は丸ごと休みだけど、昨夜風邪を押して後輩と遅くまで仕事の話してしまったので、声がぜんぜん出ない。うちでゴロゴロしながら、SNSでなんとなく休日の予定を埋めていく。

 

3月の終わりに、同級生で一番近くにいる友だちだったSさんが亡くなった。

Sさんはずっと病気を抱えていたので、いつかお別れするんだろうな、という気持ちがどこかにあったけれど、まだお互い本当に子どもで、死を意識するには若すぎる年齢から続いていることだったので、それが本当に来るとは全然思っていなかった。彼女はいつもひとりで死を思っていたのかも知れないけれど、その気持ちを私に見せることはなかった。

二人ともハードな仕事に就いてしまったり、それぞれにそれなりの経験もなんだかしてしまったようで、でもそれをはっきり語るわけでもなく、お互いの嗜好や人生観を肯定するでも否定するでもなく、ただただ寄り集まっては、ひたすら食べたり、変な工作をしたり、それぞれの萌えを満たす活動に付き合うべくいろんなところに旅したりしていたのだった。

 

Sさんのお母さんから葬儀の連絡を受けたのは、チェーン展開しているカレー屋さんで4月から一緒に働くことになる人たちとご飯を食べている時だった。日本に来たばかりの男子もいて、それは美味しそうに、楽しそうに同年代の男の子たちとはしゃいでいて、私は電話の内容を言えなかった。Sさんが私達から遠くにいってしまったのではなく、私もSさんと一緒に彼らから遠いところにいってしまったような気がした。

 

彼らはとてもいい人たちだから、電話の内容を打ち明けたら、きっと私の気持ちに寄り添おうとしてくれた。それをしなかったのは、多分泣きたくなかったからだ。

彼女は亡くなっているのに私は生きていて、話を聞いてくれる人がいて、それはきっと、「恵まれている」のだと思う。でも「遠いところにいってしまった感じ」を味わってしまったら、恵まれているとかいないとか、得しているとか損しているとか、嬉しいとか悲しいとか、全ての言葉が一度意味を失ってしまった。

葬儀の連絡をきっかけに、同級生たちが私のことも気遣ってくれた。メールでYさんがご友人が亡くなった時のお話をしてくださった。めったに私を褒めない母が、「あなたたちはいい友達だったと思う」と言ってくれた。私を通してしかSさんを知らなかったはずのAさんは「話を聞いて一晩眠れなかった」と書き送ってくれた。明日来日するRちゃんは、私の話を聞いたらぎゅっと抱きしめてくれる(たぶん)。

そんなふうに誰かがSさんのことに触れるとき、急にひとつひとつの言葉が色づいて、文字通り堰を切ったように、涙が溢れてくる。

 

それは彼女を悼む涙なのか、自己憐憫の涙なのか。私は悲しいのか、寂しいのか。その感情の内訳は、先に旅立ってしまった人への罪悪感かもしれないし、遊んでくれる人がいなくなった自分への不安かもしれない。私とSさんは一緒にいる目的がなかったし、他にもっと大切な人がいるのにたまたま近くにいるから遊んでいただけだったかもしれないし、お互いに親友だったのかもわからない。ただただ、「友だち」をやっていた。

自分の感情に名前がつけられないまま、現実から少し離れたような感覚だけが続いている。まだ若い弟さんが喪主だったから葬儀の細々としたことにハラハラさせられたり、恩師による弔辞が自己陶酔気味で思いっきり的外れだったり、それを一番に報告して怒ったり笑ったりしたい相手は、そういう事々に誰よりも共感してくれるはずだった人は、もういない。そうして、もうすぐひとつの時代が終わる。

 

平成31年4月28日

 

風が冷たい。MCU師匠のSYさんと新宿で待ち合わせ。

昨年ものすごく忙しかったし、転職する場合に備えてなるべくお金を使わないようにしているので、久しぶりに電車で都会に出る。

 

格別平成を振り返りたいわけでもないが、学生の時は文庫本を二冊くらい持っていないと長時間電車に乗るのが不安だったな、と思う。

今はスマホもあるし、二時間くらいぼーっとしてたってどうってこともない。立っていても、「みすず学苑」の広告がどうしてこんなことになってしまってるのか考えるだけで30分は潰せる(結局わからん、あとでググる)。

 

シャザム!とアベンジャーズ・エンドゲームを鑑賞。

シャザムで1回、エンドゲームで2回泣いてしまった。

エンドゲーム、私は大満足だったのだが、SYさんはちょっと納得のいかない表情。予約していただいた美味しいメキシコ料理(ファヒータが火を噴く!)を食べながらいろいろ話したけど、ネット上の反応なども踏まえて後日に持ち越される模様。

5時間近くスクリーンに集中したら体はすごく疲れたみたいで、帰りの電車の中で感想をまとめようと思ったものの、何度も寝落ちてしまった。

 

平成31年4月29日

 

午前中うちで仕事だなあ、と起きて掃除や洗い物をしてたら、約束は午後だったことに気づく。やり始めてしまえばエンジンがかかるタイプなので、よい勘違いだった。午後までに起きればいいと思ってたら、絶対二度寝してた。そのまま、換気扇の掃除などもしてしまう。

 

ちょっと時間が余ったので、金曜日に上司の印をもらって平成のうちに出しておきたい(提出日欄に『平成』と印刷されてて『令和』がない)書類を持って郵便局に行く。連休中でも開いてる「ゆうゆう窓口」は長蛇の列で、しかも私の前に並んでいた女性が個人を証明するものを持たずに荷物を取りに来た人で、配達員がどうこうとかお前じゃダメだから上の人間を出せとか、執拗に係の人に絡んでいた。その人が係員さんをさんざん罵倒して帰った後、「お待たせして申し訳ありません」と謝る彼女に「たいへんでしたね。私もこんな日に出しに来てしまって、お手を煩わせてすみません」と労いの言葉をかけたつもりだったのだが、私の声のほうがよっぽどドスが効いていて、係員さんは明らかに一瞬ビクッとしていた。待たせられた私が怒っていると思ったのか、後ろに並んでいる人にも緊張が走った。言葉の意味が伝わるまでの数秒間が長かった。何十人も殺してるみたいな声で、すみませんでした……

 

平成31年4月30日

 

アベンジャーズ・エンドゲーム感想

(アイアンマンとキャプテン・アメリカ周り)

 

トニーは、「つくる人」だった。父の影を追いながら、もっと偉大な、もっと素晴らしい何かをつくろうとし続けた。 

スティーブは「つくられた人」。持って生まれた高潔さと、つくられたものとしての責任感を持って戦い続けた。 

 

トニーは「つくる人」なのに、つくったものたちに去られるという悲哀を味わい続けた。 

アベンジャーズもヴィジョンもピーターも、みんな一度はトニーを置いていってしまった。 

スティーブは「つくられた人」ゆえに、大切なものたちを置いていかなければならなかった。 

安住の地も自身のための人生も持たず、ストイックにやるべきことをやり続ける、それが彼の人生だった。 

(CACWでの選択は彼のわがままだという人もいるけど、スティーブは私情を置いてやるべきことをやっただけで、助ける相手がバッキーでなくても同じことをしたはずだ。CAWSでの彼の行動を見ればバッキーが個人的に大切な存在であっても感情と行動を分けていることは明白だが、不器用さ故にクライマックスの場面で『友人として』バッキーを優先したような発言をしてしまい、トニーの感情をひどく傷つけてしまったことこそがスティーブの罪だと思う) 

 

CACWで二人はそれぞれに間違いを犯したが、EGではそのことへの反省や後悔が垣間見られる。 

帰ってきたトニーはCACWで自分に与しなかった仲間たちに悪態をつくが、その論理は支離滅裂でまったく彼らしくない。実のところ仲間ではなく自分を責めていることを、その場にいる全員が理解している。誰よりも論理的に正義を遂行しようとしていた彼だが、どのみちこの世界ではサノスの掲げる(ある次元ではものすごく論理的な)正義の遂行によって、どんな政治論も意味をなくしてしまっている。その後、愛する娘を育てた5年間で彼がどんなことを学んだのかはわからないけれど、幼い娘の「ママが、パパを助けてあげてって」というセリフから、少なくとも「助ける」という概念の逆転が起こっていたことが窺える。救うという行為は、強者から弱者にだけ行われるものではない。かつてワンダを軟禁したトニーは、もういない。 

スティーブの後悔が見て取れるのは、「タイムトラベル」で過去の自分と向き合った時だ。CAWSでは参加できなかったカウンセリングで人の相談に乗るまでに変容している彼は、かつての不器用で頑迷だった自分を、「(スコットとは全然違う意味で)アメリカのケツ」と吐き捨てる。 

過去への訣別と新たな団結(チームプレイ)を通して、二人が明らかに変容し、人として強くなっていることがわかる。団結した二人は更に過去に遡り、ハワードやペギーとの邂逅を経て、心の傷をも克服する。 

 

戦いが終わり、まずトニーが役割から解放される。 

誰よりも優しくて、誰よりも仲間を喪うことを恐れるトニーは、自分がつくり上げた仲間たちに見送られ、もう誰も喪うことはない。 

次いでスティーブが、初めて「自分のために」行動する。「愛する人と再会してダンスを踊る」という些細なことではあるが、誰かのためでない彼自身のわがままを通し、その帰結として「つくられた人」であることを放棄した。 

戦うことをやめて、自分のために生きること。AoUラストでトニーがその可能性に触れた時、スティーブはまったく意に介さない。しかし、今作でトニーが愛する人と家族になり物語の舞台を降りるまで、あるいはその後のいずれかのタイミングで、スティーブもそうしようと意志したのかもしれない。(『タイムトラベル』でペギーの姿を垣間見た時かもしれないが、老いた姿のスティーブがAoUでのトニーとの会話や、似たような示唆が他の機会にもあったであろうことに触れているので、やはりトニーの影響があると思われる) 

 

もともと二人はハワード・スタークを挟んで表裏一体の存在だった。 

トニーにとってのスティーブは父親の関心を盗んだ者であり、何体スーツを作っても超えられない、父の遺産の象徴でもあったが、そういうトラウマも理屈も何もかも超えて頼ってしまう、絶対的なヒーローだった。 

スティーブにとってのトニーは、置いてきた過去にダイレクトにつながる存在であり、傲慢で嫌なヤツでもありながら、いざという時は自分を超える強さと高潔さを見せるヒーローだった。

 人の出会い方に、自分で選びとる出会いとはじめから決まっている出会いがあるとしたら、この二人のそれは明らかに後者だ。 

ヒーローはいつも運命に抗うことで道を切り拓くが、EGはまさに「運命を変える」ことがテーマだった。 

トニー・スタークにとって、ペッパーやローディ、ハッピーやピーター、そしてモーガンが「選び取った人」だとしたら、スティーブは確かに「運命の人」だったし、同じことがスティーブ側にも言える。 

「運命の人」と「最愛の人」は同じような意味で扱われることが多いけど、必ずしも同じでなくていい。だって私達は、運命を変えることができるから。では、この「運命の二人」はどうするのか? 

CWで訣別した二人がどのように和解するのかと気になっていたけど、ベタな歩み寄りなんてこの二人には似合わないのかもしれない。 

どちらかが怒ったら、もう片方も怒る。どちらかが悲しんだら、もう片方も涙する。どちらかが消えたら、残されたどちらかも退場する。そういう「一対の存在」として描くことでしか、彼らの絆は表現できなかったのだと思う。 

 

ところで、私達「実在の人間」は、なかなか「一対の存在」などにはなり得ない。 

自称するのは自由だし、情緒的な結びつきや、結婚制度や職業上の立場が「一対」を定義することもあるが、第三者が誰かと誰かを「一対」と呼んだ時、それは既にその人のフィクションだ。誰かが作り上げた物語の中にしか存在できない、だからこそ美しい概念だ。 

トニーとスティーブ~アイアンマンとキャプテン・アメリカ~も、何人ものライターに描き継がれてきたフィクションである。この二人に限らずマーベルキャラクターたちの関係性は幾通りもあり、新たな作り手たちは「あなたはどう描くか」という期待を背負うことになる。 

EGで提示された「過去に戻ることで新たな世界線がいくつも作られ、しかしそれぞれの運命を変えることはできない」という前提が私にはよく理解できなくて、細かい疑問がいっぱいあるのだが、既存のキャラクターを動かしてMCUを創るという行為に対する前提でもあるのだろうな、と想像している。 

私はこの時代のこのキャップとこのアイアンマンに、このヒーローたちに出会えて、彼らの物語と同時に歩む数年間を過ごせて、本当に良かった。小さな私の声が直接作り手さんたちに届くことはないと思うけれど、いま世界中で起こっている大きな「ありがとう」に唱和したい。

 

 

平成最後の食事は、たけのこごはん。

みすず学苑の謎センスについては、公式サイトを見て事情を察した。アレは、経営者が変わらない限りあのままだな……

 

令和元年5月1日

 

昨夜風邪薬を飲んだらグッスリ眠ってしまい、仕事の来客があるまで目覚めず。部屋を片付けておいてよかった。セーフ。

 

午前中ちょっと仕事した以外は、洗濯したり床を拭いたり冷蔵庫の掃除をするくらいだったが、Twitterを覗いたり、スコットランドにいる友人とメッセージでおしゃべりしたり(3歳の娘さんとひたすら💩の絵文字を送り合ったりした)、明日・明後日と遊ぶ友人と連絡を取り合ったりして、ずいぶん人と話した気がする。

Sさんのお母さんがお買い物のついでに寄ってくれて、生前貸していたDVDなどを返却してくれた。弟さん一家に囲まれて、楽しそうだった。

年上の人が家族を作るようにうるさく言ってくるのは、誰かを喪っても面倒をみる相手(みなくても、元気に振る舞う理由)を持つためなのかもしれない。そしてそれは、悲しみに足をとられて沈んでしまわないためにとても良い方法なんだろうな、と思う。

私は、一人でこんな風に書き付けたり考えたりする時間がある方がいい、その悲しみを真正面から見つめたい、と思ってしまうのだけど、思えば仕事が忙しくて、4月からは面倒をみなければならない「ボーイズ」もいて、彼らにずいぶん救われたのかも知れない。

ネット上でこうして多くの人と話せるし、やっぱりそんなに孤独でもないような気がする。

 

令和元年5月2日

 

朝4時に起きて、友人と益子の陶器市へ。

早朝の益子はまだ春の匂い。おしゃれな食器やさんに早朝から行列している人の列に加わる。

色とりどりの食器が可愛らしく野の花をあしらって並べられていたり、おしゃれなバンからカレーやコーヒーの香りがしていたり、満開の八重桜の下で花束やレモネードが売られていたり。絵に描いたような、幸せな休日の風景だった。

仕事が好きで一人暮らしで趣味は小説や映画で、それぞれぜんぶ楽しいけど、「生活」を疎かにしがちだ。生活を美しく豊かに育んでいる人たちに触れるのは楽しい。自分の生活に似合う食器や花を選ぶのは難しいけど、家族や友人のつくる料理をイメージして、楽しく買い物した。

夕食用に、道の駅でむかごのおこわと山菜の天ぷらを買ったけれど、おみやげの食器と一緒に家族にあげてしまった。

 

令和元年5月3日

 

友人たちと山の蕎麦屋さんでランチする日だが、数日前に連絡が来て、せっかくだから裏山でハイキングしてお腹を減らそうということになった。

アウトドア沼である。私はインドア派なので、アウトドア派の絡め手戦法には常に警戒している。

やつらは「ちょっと」とか「ついでに」と切り出すが、そうかちょっとなのか、と思って誘いに乗ると「どうせならいい靴を買ったほうが」「どうせならいいレインコートを」と「どうせなら」を繰り出してくる。金を遣わせて退路を断つ作戦だ。昨年も別の友人に真夏の尾瀬ハイクに誘われ、モ●ベルで5万くらい出させられそうになった挙げ句「みんなの足を引っ張らないよう、事前に近くの低山で練習してくるように」と言われ、ぶちキレてお断りした。涼しくて傾斜がないからついて行くことにしたのに、何故単独で気温40度の山に登らねばならぬ。

しかしよく考えてみると、私も「エンドゲーム観るなら前のアベンジャーズ3作も観たほうが」「話がつながらないのでシビルウォーも」「ウィンターソルジャーは名作だから」と自分の好きなことに関してはめっちゃ「どうせなら」している。そのへんの反省も含めて今回は母にトレッキングシューズやら帽子やら借り、素直についていくことにした(借りにいった実家でも、父に『どうせならいいのを一揃い持っておいても』と言われて軽くキレた)。

友人は初心者のサポートがめちゃくちゃ上手かった。綺麗な花があれば止まるなどして適度に休憩をとり、岩場では先に登ってみせて足をかけるポイントをひとつひとつ見せ、比較的ラクな場面では職場の愚痴を吐かせるなどして、なんとなくおしゃべりしているうちに低山ではあるが2つの山を縦走してしまい、まんまと「また来てもいいかな」と思わされてしまった。母に借りたもっさりスタイルの私に比べ、カラフルな装備の友人たちがとても可愛らしかったので思わず「どうせなら」とも思ってしまった。

思えばMCU沼に入った時も、好きな俳優の出演が決まったことを餌…いやきっかけに、友人が人物相関図などを面白おかしくまとめた手書きのノートをくれて、カラオケ屋さんでDVDを観せてくれ、私が好きそうなファンフィクのURLを山程送ってくれたものである。何事にも達人がいるものだ(ちなみにアウトドア沼に引き入れた友人は小学校の先生、MCU沼に沈めた方はピアノの先生だ。私が小学生並みにチョロいのかもしれない)。

 

令和元年5月4日

 

ブロガーさんであり尊敬する人・Yさんがこんどお引越しするというので、手伝いという名目で、本当はブログでちらちらと拝見していたお宅をこの目で見たくてお邪魔した。Yさんのダンナさま(『夫』という言葉に敬称をつけられないのでそう書くしかないのだけれど、このお二人に関してはすごく違和感がある。主従、という印象がまったくない)も大好きなのでお目にかかりたかったのだが、今すごくお忙しくて連休中もお仕事、ということで残念だった。

昼食と美味しいコーヒーをご馳走になって、ベランダの植物を植え替えたり、ホームセンターに行くついでに近所のお店や神社を見せていただいたりしながらたくさんお話した。

Yさんも数年前に学生時代のお友達を亡くされていて、ぽつぽつとしか話せない私の言葉を辛抱強く聞いてくださった。Yさんのご経験や自分の経験を言葉で聞いたり言ったりして少しわかったのは、傷は乗り越えるためにあるものじゃないのかもしれない、ということだ。たぶん心の傷は消えないし、忘れていても、思い出したように痛む。人と別れるということは、大なり小なりの傷を抱えていくことだし、生きていくということは、どうしたって傷を増やしていくことに他ならない。

いつ痛み始めるかわからない傷を抱えていても、普通に仕事をしたり、誰かと話して笑ったり怒ったり、映画にハラハラしたりする(あまつさえ、山に登って降りたりもする)。夕ごはんは、これもよくブログやTwitterで拝見していたお店のカレーを食べに行って、とてもおいしかった。断捨離するという本をたくさんいただいて、とても嬉しかった。それでも、忙しかったり楽しかったりおいしかったり嬉しかったりというのは、心の傷が癒えたということではないのだ。

SさんのことがなかったらこうしてYさんとご友人のお話をゆっくり聞くこともなかったし、聞いたとしても響き方が全然違ったと思う。傷のおかげで得られるものもある。

こうやって、おそらくこれから急加速するように増えていく傷たちと一緒にやっていくしかない。増えていく痛みをどうにかやり過ごしたり、時に良さに気づいたりしながら、受け容れていくしかない。

昼間の熱気が残る生温い夜の電車で、今日は眠らずそんなことを考えた。

 

すごく若い頃、バイトで貯めたお金で外国に資格を取りに行った。

どうにか慣れてきてクリスマス休暇に入った時、ルームメイトと長距離バスで隣の国へ、一週間の旅に出た。

わずかなお金と、現地で買った防寒着と、Sさんが持たせてくれた野点用の携帯お茶セット。持ち物は少なかったしまだまだ語学も心許なかったけど、可能性は溢れんばかりだった。

休暇第一日目の朝は輝かしかった。冷たい空気に震えながら、まだ暗い道でバスを待ちながら、私達はずっと笑っていた。古い石造りの長距離バスターミナルで、マクドナルドの朝メニューを食べた。ひょっとして、ドアを叩きさえすれば怖いものなんて何もないんじゃないか。そんなことを私たちは本気で話し合った。

その時の気持ちはまだ私の中にあって、でも「可能性」が閉じていくことや「別れ」を受け容れる気持ちも、今はある。

まっさらでぴかぴかな異国の冬の朝と、優しくて甘くて苦い春の夜は対になるものではなくて、どっちも私の中にある。いくつもの朝と昼と夜を積み重ねて積み重ねて、いつか消去される。何も残らない。

それは動かせない現実のはずだけど、実感はまだ遠くて、頭をよぎる一つの考えにすぎない。Sさんはひとりで現実に飛び込んで行った。私はいつまで混沌の中にいるんだろうか。

 

令和元年5月5日

 

12月に帰国したRちゃんが10連休に合わせて日本に遊びにきたので、夕方からウェルカムバックパーティーに呼ばれている。

なのだがなんだか起き上がれない。Yさんが本棚から好きな本を持っていっていいよ、とおっしゃったので遠慮するふりをしながらリュックにパンパンに詰め帰ってきたのだが、ついついベッドからその本たちに手を伸ばしてしまう。先日のプチ登山が楽しかったので手にとった『山女日記』を読み始めたら止まらなくなってしまい(何もする気が起きない時、何か手頃なことを始めると度を超えて耽溺してしまう)昼過ぎにやっと沸かした風呂にまで持ち込む。風呂の中で読み終え、ようやく身支度を始め、わたわたと出かける。

 

会ってしまえば久しぶりに会うRちゃんや彼女の友人たちは懐かしく、初めて会う人達も気さくで楽しかった。

そこにいた人たちの大部分が「ここにいることを選んでここにいる人」たちだ。なにか志があってこの国にきた、とかだけでなく、親の都合でこの国に住むことになって嫌だったけどどこかで肚を決めた、とか、配偶者の都合でこの町に長くいるけど故郷は別にあって、でもここに骨を埋めたいとか、一度嫌になって出ていったけどやっぱり戻ってきたとか。

その場所がどこであれ、私はその人たちがそういう選択をしたという事実を、無条件に好ましく思ってしまう。

 

Rちゃんに、共通の友人であるSさんが亡くなったことは話せなかった。

はじめのうちは賑やかな会だっだけど、真夜中過ぎの2時まで飲んで、沈黙が訪れるタイミングもいっぱいあった。みんなはビールだけど私はシラフだったので、ずっとどこかで「話さなくては」と思っていたし、一人また一人と帰っていって最後はRちゃんと私とごく親しい人たちだけだった。でも、言えなかった。

空気の流れがそういう形にならなかったのか、私に流れにのるだけの気力がなかったのか、わからない。

Rちゃんはまだ日本にいる。私の連休はもうすぐ終わるけど、これからしばらくは休みのたびに少しずつ時間を割き合って、共通の友人に会ったり、私の実家に遊びに行ったり、ラーメンやお好み焼きを食べたりするのだ。

その中で、話せる日が来るのかな。

 

 

 

 

 

 


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