誰かの中にある国

私は「クール・ジャパン」という言葉をよくわかっていない。

具体的に何を言っているのか、実体がつかめないというか。その言葉を使っている人と指し示そうとしているものの間に、とてつもない距離があるような気がしてしまう。

そんな私だが、『KUBO~二本の弦の秘密』という映画には、自分の背景を強く肯定されたような気がした。

KUBOの監督は、『魔女の宅急便』の宮崎駿が「自分の中のヨーロッパ」を描いてみせたことに感銘を受けて、「自分の中の日本」を描いたそうだ。だから、日本人の目で見ると、細部に小さな違和感はある。

しかし、「彼の中の日本」は美しい。私は彼の中の日本に魅せられ、その中に自分の物語のかけらを見つけた。それが嬉しい。

 

KUBOという物語は、桃太郎とかかぐや姫とか、もっと古い神話とか、いろいろな日本の寓話に似ているようで、どれにも収束せずに転がっていく。

同じように、私はクボには似ていないし、私の両親もクボの父と母に似ていない。

しかし、私には産んでくれた人たちがいて、私自身の人生がある。

どこで生まれどのように育てられたかとか、どれくらい成功したかではなく、ただ、誰かから生まれ出て、自分の物語を生きるということ。『KUBO』は人間の根源的なところを肯定してくれているような気がする。

 

たとえば、自分たちの村を壊滅させた月の帝が記憶をなくした時、村人たちが「あなたは良い人だった」と口々に語る所が私はとても好きだ。あれが唯一の解決法だとは思わない。私があの中にいて、帝に大切な人を殺されていたら、怒り狂うかもしれない。でも、きっと私たちの世界は「目には目を、歯には歯を」の論理に疲弊している。失敗してしまった人や自分たちの理解を越えた人を、闇雲に攻撃したり拒絶するのではなく、あんな風に受け容れられたらどんなにいいだろう。

防衛所の観点では間違っているかもしれない。あとでとんでもないことになるのかもしれないけど、とりあえず目の前で弱っている人を見捨てず、野放しにするでもなく、しなやかに、したたかに共存を模索する。彼らは理性的で尊敬すべき人たちだと、私は思う。

クボの母・サリアツもや父・ハンゾウも、魅力的な人だ。

弱々しい女性と見せかけて、実は元ヤン※(※違う)のサリアツも、飄々として全然威張らないハンゾウも、ステレオタイプな日本の夫婦をイメージさせておいて、実像は全然違った。この二人は、監督にとって理想的な男女のあり方なのではないかと思う。「日本人」ではなく、きっと普遍的な「善い人たち」を、この作品は描いている。

日本が理想郷として描かれているのではなく、この映画を作った人にとっての理想郷が日本に似たかたちをしている。自分の生まれた国が誰かからこんな風に思われるのは、とても嬉しい。

 

絶賛されている「折り紙」や「日本的風景」の描写はもちろんだが、監督の「日本」への目配りがすごく行き届いている、と感じた場面がひとつある。

それは「カンチョー」だ。

病んだ母親や村人の前ではいい子だったクボが、サルと旅を始めたとたんにやんちゃな一面を見せる(きっと、それが彼の本当の顔だ)。クボはサルに「カンチョー」を決めて怒られるが、米国人の友人によると、これは「日本の子どもあるある」なのだ。

かなりの数の小学生がALT(外国語講師)にカンチョーをキメている。そして、文化の違いから、時にマジギレされる。

アメリカの子どももカンチョーをしないわけではないが、よく知りもしない大人に対して行為に及ぶのはかなりハードルが高いそうだ。日本の子どもはALTに対して、学校の教師に対するのとは違った親しみを感じている。カンチョーは、日本の子どもと仲良くなった者だけが経験する『日本らしさ』なのかもしれない。ここに目をつけたスタッフは、彼らなりに日本のことを「深く」調べていてくれているのだろう。

 


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