見えないものが見えるようになる話

本や映画が好きだ。

服や食べ物や雑貨に関しては無駄遣いをしないように、すごく考える。少しでも「良い買い物」をしようとする。でも本や映画に関しては、比較的自分に甘い。

たぶん私は本や映画に期待をしている。服や食べ物や雑貨よりも効果的に、自分の生活を良くしてくれると思っている。

本や映画は、ひょっとしたら私を変えてくれる。読んだり観たりする前と後で、私に見える世界ががらりと変わっているかもしれない。そういう期待が、財布の紐を緩めている。

 

昨年から始めたTwitterでも本や映画が好きな人たちとつながっていて、リツイートなどを通して映画ファンの「旬の話題」がなんとなくわかるようになった。よく目につくのが、「邦題」と「日本での公開時期」への意見だ。

"Hidden Figures"はたまたま機内上映で観ていたので、『ドリーム~私たちのアポロ計画』という邦題がつき、「劇中に出てくるのはアポロ計画ではなく、それ以前のマーキュリー計画だ」という指摘により副題がカットされる、という公開前の一部始終を、興味を持って追っていた。

 

同時期に目にしたツイートに、『007 スカイフォール』でボンドが民間人のバイクを盗むのを糾弾するような人は映画を観るのに向いていない、というものがあって、これも興味深かった。

私も細かいことが気になるタイプだが、(少なくともこのケースでは)ボンドが民間人のバイクを盗んだことに「筋が通っていない」ことに気づけなかった。

「ボンドは人も殺すでしょ?重箱の隅をつついて茶化さないで」と言ってしまえばそれまでだが、ストーリーを追っていくと、どうして筋が通らないかわかる。その点に気づいて観るのと、気づかずに観るのではボンドやMI6の印象がほんの少し違う。すると、端々に気になる点が見えてくる。

私は「ボンドが民間人のバイクを盗むのが気になる人」に新たな視点を与えられて嬉しいし、面白がっている。でも、「そんな視点を持つなら映画など観ないがいい」というくらい腹を立てる人もいるのだ。

 

ひねくれた見方は受け容れがたい、という意見は、かつての映画業界が作りあげた必然かもしれない。

一時期、映画のCMは、映画を見終えた客たちが「感動しました」「泣きました」または「スカッとしました」などと、似たような感想を述べてみせるものばかりだった。すると何だか、それが「正解の感想」だと、観る前に刷り込まれてしまう感じがある。「ボンドが民間人のバイクを盗んだ所が気になりました」というコメントがあっても、おそらく使われないだろう。

映画をまだ観ていない人に「正解の感想」を見せて集客をしよう、という方法論の延長線上に、「全米第○位」「○○賞獲得」という太鼓判を待って公開するとか、「女性向けに、柔らかい題に付け替える」「日本人には馴染みの薄い題だから、わかりやすいものに変更する」という発想がある。

「(自分達の考えるところの多数派である)こういう人に、こういう基準で選んで、観たらこういう感想を持って欲しい」という前提ありき、なのだ。多くの興行主は、「その意図から外れた人」を宣伝の対象から外してしまう。

少数派の個性に構っている余裕など持てないほど集客が厳しいのだろうし、「個性の伸長より均質化」という傾向は映画業界だけの問題ではないが、たくさんの人に観に来てもらうための宣伝が映画に興味を持つ人を限定してしまうのは皮肉な話だ。

その後、映画の宣伝はSNS主導になった。SNSの発展で「見えた」ことは、人は誰かと同じように感動したいのではなく、むしろその逆だ、ということだ。

もし同じように感動して同じような感想を言ったとしても、それは独立したひとりひとりの行動だ。

「鑑賞前に人の感想を見る」行いに置いても、「見る」「見ない」「ネタバレを避ける」「〇〇さんの感想なら見る」というように、自らの選択を反映できる。テレビの感想CMとは全然違って、ずっと能動的だ。鑑賞というのは、能動的で創造的な行為なのだ。

 

映画を見ている数十分間、観客は、他人の人生を生きる。

どうして少年は椅子でクラスメイトを殴ったのか。セールスマンに店の名前を盗まれた兄弟はどんな気持ちだったか。自分の人生では経験し得ないことを、その時だけ「自分のこと」として感じる。

そうすることで、観客の人生観も少しだけ(時には大きく)変わる。

「変わりよう」はその人だけのものだ。泣くのも笑うのもひねくれるのも、その人の勝手だ。

興行主の期待通りの感想を持つとは限らない。数十分間映画の世界に浸ることで、そこから何かを見出したい。それが何であれ、自分には見えなかったものが見えるようになりたい。だから私は映画館に行く。

 

それで"Hidden Figures"だが、私には「宇宙」よりも「夢」よりも、もっと身近なことを描いているように見えた。

主人公たちを差別するNASAの職員たちは、スクリーンのこちら側から見ているとずいぶんひどい言動もするが、決して悪人として描かれてはいない。陳腐ないじめはむしろ描かれない。しかし彼らには、自分たちにとって当たり前な環境、当たり前な行動に問題があるということが「見えていない」。女性も黒人も人間として尊重されるべき存在であるということや、彼女たちの有能さが「見えていない」。それが彼らに見えるようになるまでを描いた映画だ。

"Was blind but now I see"だ。

私だって無意識に誰かを差別するし、されている。誰かの苦労を平気で消費しているし、されている。社会の枠組みに取り込まれて、見えなくなっていることがきっとある。

 

傲慢、いじめ、差別。

そういうものはやっている人にはそれとして意識されないし、映画の中でも、そういうものとして描かれない限り観客に「見えない」(ボンドの横暴を看破した人のように『見える』人もいるが、私には難しい)。

少年が椅子でクラスメイトを殴るのを見たら、その表情や動きから「何かあったのだろうか」と想像はできても、その行動に至るまでの事情は、彼の心情を映し出す描写を見ないとわからない。

主人公の視点を借りて何度もトイレまで歩いて、ようやく差別とはどういうものなのか、少しだけ実感できる。ほんの少し、「見える」ようになる。

 

Twitter上ではアポロなのかマーキュリーなのかという「宇宙のこと」に議論が集中してしまって、HiddenもFiguresも置いて行かれた格好になったことが、私はちょっと不満だ。

邦題に正解があるとは思わないし、代案がなければ議論に参加する資格がない、とはもっと思わない(実際私には『トイレまで何マイル?』しか思いつかない。どんだけトイレが気になったんだ)が、極端な話、べつに舞台がNASAじゃなくても(対象が宇宙じゃなくても、ロケットじゃなくても)彼女たちは真面目に計算をし、するべき事を全うしたのではないか。

「どんなに無視されようとも、傷つけられようとも、一人の人間として誇りを持って仕事をやり抜くのだ」という切実な思いを表現するのに、「夢」はあまりにも美しすぎて、つかみどころのなさすぎる言葉ではないだろうか。

Hidden Figuresという原題の良さは、その「地味さ」にもあると思う。

 

集中しづらい環境で(しかもチケット代も払わずに)一回しか見ていないので確信を持って主張できるわけではない(人類が宇宙に行くために貢献するのが私の夢なの!って主人公たちが連呼してたらすみません)。

公開されたら、映画館に行こうと思う。その時「夢を叶えるって素敵!」「輝く女性のための応援歌!」「NASAの感動秘話!」みたいなCMが流れていたらやっぱりちょっと影響されるのかもしれないが、私の見る"Hidden Figures"はきっと、夢の話でも女性賛歌でもロケットの話でもなくて、見えない人や見えない力が見えるようになる話だ(トイレが遠いのはすごく困るという話でもある)。

その世界だけに浸る数十分間を経て、彼女たちの物語は私自身の体験となり、現実を生きるために目を開かせてくれる。そういう風に、私は映画を観たい。


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