みんなが持ち場を守ること

『アイヒマン・ショー』を観た。

「興味あるけど、ホロコーストの資料映像を含んでいると聞いたので、観る勇気が出ない」と言う友人がいるので、感想は彼に向けて書きたいと思う。

 

強制収容所のショッキングな写真や映像が出てくるが、この映画はホロコーストそのものを描いているわけではない。直接描かれているのは、かつてホロコーストに関わった人々と、その周縁に点在する人々だ。

周縁と書いたが、円の中心にいるアイヒマンが真っ黒な存在で、そこを起点に少しずつ白くなっていくようなグラデーションが描かれるわけではない。

 

法の定義は置いておくとして、ある出来事に関わった人々のうち、誰までを当事者と呼べるだろう。裁判を報道することに道義的責任を感じる一方で、視聴率稼ぎの「ショー」とも捉えているプロデューサー。アイヒマンの感情を暴き出すことに固執する監督。『ガガーリンの方が面白い』と笑い飛ばした後で、被害者の証言に打ちのめされる視聴者もいた。その背後には、生存者の体験を信じずに傷つけた、大勢の人々がいた。彼らはホロコーストとまるきり無縁と、いえるだろうか。

 

友人に向けての、私なりの結論を書くと、この映画は怖い。

加害者への憎悪や、被害者への同情を煽ることはない。しかし、裁判を見ている善でも悪でもない人々を描くことで、それをまた見ている「実在の」私たちもその延長線上にいる、つまり、黒ではないにしても白でもないことを、思い知らせてくる。

だからこそ、終盤に現れる「実在の」生存者の証言や死体の山の写真は、怖い。それは、スクリーンの向こう側にいる演技者たちではなく、こちら側の世界の私たちに起こった……だけでなく、私たちに起こるかもしれない、私たちが起こすかもしれない出来事だと、この映画は言っているのだ。

 

この世界に起こるすべてのことにおいて、私たちは加害者であり、被害者だ。当事者であり、傍観者だ。だから世界は混沌としていて、怖い。自分だけは正しいと、そしてその正しさは崩れないと、大丈夫だと、私たちは思いたいのに。

監督のレオは、アイヒマンの人間的な表情を捉えることで、彼なりの納得を見出そうとする。私たちは、ハンナ・アーレントの見解やミルグラム実験に納得を見出そうとする。

納得は救いだ。劇中で強く言い放たれる"learn"という言葉。人間は過去の過ちに学ぶことができる。もうへまはしない。だから希望はある。そう信じることにしか、救いはない。

レオつながりというわけではないが、レオ・レオニの『スイミー』という童話の一節を、私は思い出す。

 

スイミーは言った。 

「出てこいよ。みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ。」 

小さな赤い魚たちは、答えた。 

「だめだよ。大きな魚に食べられてしまうよ。」 

「だけど、いつまでもそこにじっといるわけにはいかないよ。なんとか考えなくちゃ。」 

スイミーは考えた。いろいろ考えた。うんと考えた。 

それから、とつぜん、スイミーはさけんだ。 

「そうだ。みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして。」

スイミーは教えた。けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もち場をまもること。 (レオ・レオニ『スイミー~ちいさなかしこいさかなのはなし』谷川俊太郎訳)

 

結局のところ私たちも、生まれ落ちた、または流れ着いた環境で、そこで得た知識と体を使って、自分の持ち場を見つけて守っていくしかない。プロデューサーとして、監督として、カメラマンとして。

妻として、息子として、娘として。ホテルの女主人として、絨毯売りとして、コーヒー屋として。

時に加害者として、時に被害者として。

そして、考える。いろいろ考える。うんと考える。過去の人達が行ってきた選択を思いながら、私たちも人間としての選択をする。

それでもいつか、大きなものに飲み込まれてしまうかもしれない。

浮き輪のようにアーレントの本を抱えていても、彼女のように強くはいられないかもしれない。でも、考えたことに、学んだことに、少しは救われる。ギリギリのところで、きっと。

 

私には、この映画の登場人物すべてが、大きな魚が通りすぎた世界をふらふらと泳ぎだした、小さな魚たちに見える。

あえて、大きな魚の姿は描かれない。だから、水槽の外の小さな魚である私たちは、自分たちのいる水槽に、静かに思いを馳せる。そういう映画だと思う。

 

 

 

 

 


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