これでいいのか?

大ヒットした深夜アニメ、『おそ松さん』最終話の評価が分かれている。

(『おそ松さん』という作品自体については放映中にも記事を書いたので、よろしければご参照ください→過去記事:『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松さん』は『空飛ぶモンティ・パイソン』のように、短い話をつなげた構成で、個々のエピソードは基本的にリセットされる。キャラクターが骨だけになってしまったり、結婚したりしても、次のエピソードではちゃんと通常の状態に戻っている。

ただ、キャラクターの「意識」は過去のエピソードの記憶を保っているので、死んだり結婚したりしたことも全く別次元の話ではないらしい(この漠然としたつながりも、パイソンっぽい)。

その不確かな連続性の中で、キャラクターのちょっとした成長や関係性の変遷が、繊細に描かれている。特に、四男の次男に対する複雑な感情の描写はさりげなくも丁寧だ。表向きはあくまでギャグアニメの枠を出ないが、ひそかな連続性のおかげで、二人の関係の変化がわかる。「裏(描かれなかった時間の中)で何が起こっているか」に思いを馳せずにはいられない。私も「萌えた」。

 

しかしこの連続性は腐女子のためだけのものではない。六つ子のニート生活がお気楽に描かれる中で、それぞれが「これでいいのか?」という意識を持っていることが、うっすらわかるようになっているのだ。

最終回の1話前にあたる第24話は、その「これでいいのかパート」を総括するような内容だった。

ただ一人、就職活動を続けながら自らの意識と向き合っていた(その行動がギャグとして茶化されていた)三男の就職が決まり、それを契機に弟5人の自立への決意と、心を閉ざしてみせる長男の様子が切なく描かれる。そのまま最終回までの一週間、「私たち」(あえて『腐女子』と括らない。六つ子を見守ってきた人々には色々な人がいる)は、踊りに踊らされた。

もう、六つ子が何をやっても可愛いというか、とにかく泣かせたくないというか、むしろ私が養いたいというか、そういう精神状態に持って行かれているのだ。そりゃ騒ぐ。

そしてついに訪れた最終回は、前回のシリアス展開を開始後1分でひっくり返す、ハチャメチャなストーリーだった。なんだかよくわからない始まりで、やけのようにギャグを連発しまくり、なんだかよくわからない結末を迎えた。

そういう展開の中でも、かつて退場したキャラをちらりと出したり、1期と2期をリミックスしたエンディング曲でお別れするなどのサービスでずっと観てきたファンの「労に報いた」点は見事だったと思うが、ストーリーそのものへの評価は分かれる。

ストーリーテラーとしての製作者は、「これでいいのかパート」の回収を放棄している。広げた風呂敷をたためなかった、と受け取る人は納得行かないはずだ。

擁護する人ももちろんいる。「少なくとも六つ子が別離を迎えずに済んだ」ので喜んでいる人は多いと思うし、もともと『おそ松さん』はナンセンスなギャグアニメとしての骨組みを持っている。2クール目の初めで「自己責任アニメ」と言い出したあたりで、「終わり方」は意識されていたのだろう。

いいか悪いかの議論なら、「これでいいのだ」という赤塚イズムを持ちだされた時点で、「これでいいのか」派は屈服するしかないのだ。

 

だから、私はあえて「これでいいのか」派として物を言わせてもらいたい(本音では、六つ子ちゃん可愛いでちゅね~、もう何でもいいんでちゅよ~、と思考停止していることも否定しないが)。

「これでいいのだ」は『天才バカボン』のバカボンのパパの決め台詞だが、そもそもどんな文脈で使われるのが正しいのだろうか。

 

原作『おそ松くん』を描く上で、赤塚不二夫はさまざまな表現に挑戦してきた。

赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ!」でいくつかのエピソードが紹介されているが、ナンセンスギャグが苦手な私でも「面白そう」と思ってしまう。名画や小説を下敷きにしたストーリー、緊張感溢れるコマ運び、感動を呼び起こすために計算された構図。

笑いというのは、一旦徹底的に構築された世界を崩すことでしか極められないものなのだろう。

公式サイトを閲覧するだけで赤塚不二夫の世界が理解できるとは思わない。もっと、漫画そのものに触れる必要があるだろうし、漫画家本人の人生を知るための資料にもあたらねばなるまいが、現時点での私の理解では、赤塚世界とは、「これでいいのか?(社会に直接訴えかけるシリアスな問題提起や、繊細な感情表現」と「これでいいのだ(現実の不条理を知った上で、すべて受け容れる、はちゃめちゃで大らかな世界」が何層にも積み重なった、ミルフィーユのようなものだ。

『おそ松さん』スタッフは、そのミルフィーユを丁寧においしく積み上げることで、赤塚世界に敬意を払ってきた。でも、24話から最終話の流れでは、「これでいいのだ」を、「これでいいのか」からの帰結ではなく、自らのストーリーテリング能力不足を隠すための免罪符として使っているように見える。綺麗に仕上げるべき「一番上の層」でそれをやってしまったことが、「これでいいのか」派が一番ひっかかっている点ではないだろうか。

私たちは『おそ松さん』スタッフを優秀な菓子職人として信頼してきた。

でも、表面にどんな飾りつけをして終えても、見た目の好みは分かれるだろう。だからこそ、味で勝負して欲しいのだ。

 

しかし、この「事変」はいかに彼らが私たちの心を揺さぶることができるかという証明になった(ひょっとしたら計算づくだったのかもしれない。そう疑ってしまうほど、『おそ松さん』スタッフには余力をうかがわせる何かがある)。きっと、2期からは安心して、よりファンを信頼した上で、さらにおいしいお菓子を作ってくれるだろう。貪欲に、期待していたい。


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