銀杏を洗う

記事のひとつをツイッターで拡散していただいた際(それ自体はとてもありがたいことだ)、私の文章の拙さが原因で、読んでくださった方に嫌な思いをさせてしまった。

私自身はツイッターのアカウントを持っていないが、激しく怒っている方のツイートを友人が見かけたそうで、「対処したほうがいいと思うよ」とスクリーンショットを撮って送ってくれた。

 

傷ついた。しかし、身から出た錆だ。

当該記事にも追記をしたが、発端は私が「ワトスンは何もできないキャラクターの代表のように言われている」と書いたことだ。その部分に対し「ワトスンが何もできないだと?この人は何を言っているんだ」という反応があったらしい。ツイッターには発言を一般公開しない機能もあるため、何人の方が同じように思われたかはわからない。

『SHERLOCK』におけるジョンのような重要な役割も含め、『ホームズ』二次創作におけるワトスンの描かれ方には、それぞれの作品においてそれなりの意味がある。だから道化や役立たずとしてのワトスン像を頭から否定するつもりはないが、個人的には、原作のワトスンを揶揄する人には心の中で反発してきた。しかし、いつの間にかそうした評価をひとつの現実として受け容れてしまったようで、別の映画について語る時に一般論としてさらっと出してしまった。

「ワトスンぼんくらイメージ」が存在していたことは、お怒りになった方々も認識していらっしゃったようなので、矛先が私だということはこの際たいして重要ではないのかもしれないが、いずれにしても、先に石を投げたのは私だ。

石ならまだいいのかもしれない。小石であれば、痛いのは短時間で済む。

言葉の暴力で投げられるのは、銀杏の実のようなものだと思う。投げつけられるといつまでも臭い。忘れたくても、不愉快がまとわりつく。

 

以前勤めていた職場には、大きなイチョウの木が何本もあった。

路上にたくさんの実を落としていたので、そこを通学路とする子どもたちに「ぎんなん地獄」と呼ばれて嫌われていた。

上司の一人は少しでも空き時間ができると黙々と銀杏の実を拾っていた。子どもたちには「ぎんなんおじさん」で通っていたらしい。私たち部下も手伝ったが、とにかく量が多いので、毎年かなりの量を彼一人で拾ったはずだ。実は際限なく落ちてくるから、いくつもいくつも、何度でも。

大量の実を水に浸け、掻き回して(お風呂のお湯を掻き回す棒が最適だそうだ)種を取り出し、大きなかごに並べて乾かしてくれるのもその人だった。

いくつもの工程を経て手渡された銀杏の種を使い古しの封筒に入れ、電子レンジにかけると、硬い殻が割れて、透明感のある翡翠色の粒が現れる。その大きさに比して信じられないほど、滋養に満ちた味がした。

 

ツイッターでの生き生きとした言葉のやりとりは、見ていて本当に楽しい。

きっと、タイムリーに怒ってくれた人がいたおかげで、私の言葉に傷ついていた人は救われたと思う。そうだとしたら、その人のおかげで、私もまた救われている。そうした効能はツイッターならではのものだ。

でも、私はまだまだこのツールは使いこなせないと思う。言葉に余計なものをまとわせてしまったり、思ったことをうまく伝えられなかったりするから。

もともとの人間性がダメなのか、言葉の使い方がなってないのか、両方なのか。よくわからないが、とにかく私は、銀杏を洗うような作業を経ないと言葉を発せないのだと思う。

いい人ぶるつもりはない。悪口だって言うし、自分勝手なことも、いいかげんなことも言う。

洗ったところで自分の臭いはとれないし、手をかけても不味い実が出てくる。

しかし、洗わねばなるまい。桜のようにそこにいるだけで皆を楽しませる木もあるが、桜には桜の苦労があるはずだ。臭い実を投げつけて人に悲鳴を上げさせてしまう木に生まれついたら、それなりに努力しなくてはいけないのだろう。

元職場のイチョウは、既に切られてしまった。「ぎんなんおじさん」は、来春定年退職する。

 

徹底的に磨かれた、という感じがする言葉に触れるのが好きだ。

最近『CITY HUNTER』の続編がドラマ化されていて思い出したのだが、アニメ『CITY HUNTER2』の主題歌の一節をよく口ずさんでいた。

 

最初に好きになったのは声

それから背中と整えられた指先

ときどき黙りがちになるクセ

どこかへ行ってしまう心とメロディ

(PSY・S 『ANGEL NIGHT~天使のいる場所』)

 

身近にいる人に恋をする、その過程が四行に凝縮されている。

きっかけは、声という、意識しなくても耳に入ってしまうもの。

つい相手に見入ってしまい、今までは目に入らなかった細かな発見にドキドキする時期を経て、相手の内面を想像するようになり、自分とのつながりを切なく望むようになる。

そういう分析が出てくるのは大人になった今この歌を思い出したからで、子どもの頃は理由もわからずただ惹かれた。助詞の「と」に「整えられた」が続く「と・と・と」という音の並びが心地よかったのを覚えている。

いい言葉は、どんな受け取り方をする人も惹きつける。

いつかこういう言葉が書けたらなあ、と思う。


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