『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松くん』の六つ子が大人になった、という設定の深夜アニメ『おそ松さん』がネットでウケていて、ローカル局の千葉テレビは「この波に乗っかって」『おそ松くん』の再放送を開始したそうだ。

 

この件において、群馬県民は完全に勝ち組である。群馬テレビでは『おそ松さん』が始まる数か月前から『おそ松くん』の再放送をやっていた。

群馬県民は、満を持して新旧作品を比較できたわけである(やっている県民がいたかどうかは知らないが)。

 

私は1988年版の放送をリアルタイムで観ていて、主題歌(仕事とローンに追われるサラリーマンの悲哀を歌ったものだった)を大声で歌っては周囲の大人を苦笑させていた世代だ。

このバージョンもアニメ化としては2作目らしい。当時も、大人に「昔のアニメのほうが毒があった」とか「いや原作の方が」と言われていたが、原作と1作目を知らない私にとっては、十分無茶苦茶だ。

第10話では、六つ子の長男おそ松が高熱を出し、イヤミが彼を死神に売り渡す。最終的にはそこまでの流れとはほぼ関係なく全員死んでしまい、「それでは皆さまさようなら」とミュージカル調に終わる。往年のギャグへのオマージュだとしてもすごい。ボケ、投げっぱなしだ。

 

それに比べると2015年の『おそ松さん』は、不条理は不条理だが、何というかフォローが効いている。

まず、ほぼクローンだった六つ子にわかりやすい個性がついた。性格は六者六様だし、外見も描き分けられている。

そのことによって、六つ子の間に関係性が生まれる。ちゃんと「ツッコミ」がいるので、一つ一つのギャグがきっちり「回収」される。日頃鬱屈している者が愛情を垣間見せるという「ちょっといい話」もある。

『おそ松くん』に限らず昔の漫画には、現実とその世界をつなぐ説明がなかった。例えば、どうして毎日同じ服を着ているのか。安月給のお父さんと専業主婦のお母さんで、どうやって六つ子を育てているのか。

服装に関しては、時代性もあるのでうまい例えではなかったかもしれない(おそ松くんたちはいつも学生服のような服装だったが、現実もそんな感じだったのかもしれない)が、驚いたことにおそ松さんたちは着替えている。ジャケット、パーカ、つなぎなどバリエーションがあるし、丈や着こなし方にも個性が出ている。

一家の経済状況にも言及がある。母に「ニートたち」と呼ばれる兄弟(この『ニートたち~』が何ともいえずあっけらかんとしていて、今はニートって普通のことなんだなあ、と実感する)は「このままではまずい」と思って就職しようとしたりするが、イヤミに「子供のころチヤホヤされた連中はこれだから」というような陰口を叩かれていて、(マンガやアニメ『おそ松くん』の)子役としての収入が一家を支えていたことが、六つ子が自立せず両親もそれを責めないことと関係があるのかもしれないなあ、などと邪推させられてしまう。

 

こうした「現実的な見方」があった方がいいとかない方がいいとか言いたいのではなく、現代のギャグ漫画にはメタ要素というか、視聴者や読者の視線がより多く混ざるんだな、と思う。ストーリーの中で登場人物が自分の立場で語るのではなく、観ている子供たちが翌日の教室で話すようなこと。「いつも同じ服だよな」とか、「見分けがつかないなら変えたらいいのに」とか。

『おそ松さん』におけるツッコミもかなり視聴者目線だ。登場人物の一人として自らの立場からツッコむのと同時に、視聴者の気持ちを代弁するという機能をはっきり打ち出している。「いや、おかしいだろこの状況!」とか、視聴者ではなく登場人物が言う。同じことを、視聴者は翌日の教室ではなくリアルタイムでSNSなどで言っている。

 

では、どうして今、視聴者目線が取り入れられるのか。

それは視聴者もまた優秀な創作者であることが、二次創作の台頭でわかっているからかもしれない。ネットには『おそ松さん』の二次創作が溢れている。製作者がそれを見越しているのは、第一話を見れば自明だ。

視聴者を置き去りにした「それでは皆さんさようなら」から視聴者寄りにシフトすることで、『おそ松さん』は成功し、放送期間も延長されたわけだが、第二作と第三作の間にはビデオゲームの台頭があった。二次創作ブームの背景にはネットの普及もあるが、その更に前の私の世代には、ゲームの影響がある気がしてならない(ゲームはしないが二次創作はする、という人ももちろんいたが、時代の空気はたっぷり吸っていたはずだ)。

当事者なのでよく覚えているのだが、子どもたちに爆発的なファミコンブームが起こったのは『おそ松くん』88年版放送の数年前で、だから88年版おそ松くんを作ったのはファミコンを知らずに育った大人だ。

ゲームは想像力を奪うとか暴力性を引き出すとか、大人には散々言われたものだが、それは半分当たっていて半分はずれている。

初めてゲームを手にした時感じたのは、自らの手で物語を切りひらいていく手触りだ。主人公の運命は私の手中にある。結末を自分で決められないテレビや本とは違い、主体的に関われる娯楽。実生活において自分で選択できることが少ない子どもにとって、それは何ともいえない快感だ。その証拠に、読者の選択で物語が分岐する「ゲームブック」も当時流行った。

一方で、世界やキャラクターは既成のもので、一から物語を作らなくていいという手軽さもある。登場人物をひどい目に合わせても、自分は傷つかない。「腹を痛めて産んだ子」ではなく、借り物の体だからだ。飽きたら、また次の対象に移ればいい。

そういう意味で、他人の作ったキャラクターを借りて物語を作ることは、ゲームをプレイすることに似ている。私はゲームの愉しみも二次創作の愉しみも否定しないが、ゼロから何かを作り出すのとは、やはり違う。どちらがより偉いというのではないが、種類の違う行いだと思う。

 

『おそ松くん』の六つ子は顔かたちはすべて同じで、それに「ツンデレ」とか「無邪気」とかさまざまな色を付けていくのが『おそ松さん』だ。

それは、二次創作が外から見るよりもずっと豊かな創造性に溢れていることと同時に、一歩引いて見れば没個性的にも見える、ということも暗示している。どこに視点を置くか、何を愉しんで生きるかは、人それぞれだ。

 


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