『キングスマン~』の中の『最後の事件』

「塚口サンサン劇場」プロデュースによる「キングスマン・レディース&ジェントルマン上映」の東京版(角川シネマ新宿)に連れて行っていただいた。

参加した方々がさまざまな形でレポートしてくださっているが、ここにも「L&G上映」の概要をざっと書いておく。

 

・ドレスコードがある(ジャケット、眼鏡、傘。ただし強制ではない)

・大きな声を上げてもよい。

・クラッカーや紙吹雪が劇場側から配られる(持ち込みも可)


思い思いのお洒落をして、(劇中に出てくる)ギネスを楽しむ。上映までの待ち時間にはかっこいいDJがサントラを回してくれている。観賞グッズを自作してきた人も大勢いて、初対面の参加者とも会話が弾む。本や映画など、ひとりでひっそりやる娯楽を好んでいた私にとっては、上映前から既に異次元である。

主催者の挨拶と"Eat, drink,party!"(これも劇中のセリフ)の唱和で上映が始まる。

上映中は、観客が主役だ。お気に入りの場面でクラッカーを鳴らす。鋭いツッコミにどっと笑いが起きる。人気キャラクターが出てくれば嬌声がわく。

アメリカ人の友人に話したところ、「アメリカでは普通の映画館がそんな感じだよ」と言われたが、違うのは「観客全員が2度目以降の鑑賞」というところではないだろうか。

日本人は自制する。映画の登場人物に対して愛を叫ぶという「オタク的行為」は、「そうでない人もいる環境」では許されない。オタク自身が、それを許さない。

だから、自分たちを隔離する。「ファンだけが集まり、好きなだけ愛を叫んでいい環境」を作り出す。そこから、新たな文化が生まれてくる。

「文化」なんて言い方は大げさかもしれないが、今回私が一番感動したのは、塚口サンサン劇場で、既に独自の鑑賞文化が育まれていたことだ。

歌舞伎の大向うのような「ツッコミ師」がいて絶妙なツッコミを入れるのは、ニコ動のコメントや2ちゃんねる、Twitterでの「実況」を基にしたスキルだし、好きな場面でクラッカーを鳴らすのはFacebookの「いいね」や、ブログの「拍手」である。観客たちが共有するバックグラウンドが、ちゃんと生きている。

観客がごみ袋や軍手を持参して散らかった紙吹雪やクラッカーを掃除するのも、サンサン劇場の恒例行事だそうだ。

ちなみにチケット代は通常の映画料金と同じ1800円なのだが、劇場はクラッカーや紙吹雪を提供したり(紙吹雪も、劇中の写真をあしらった凝ったものだ)、照明や音響で盛り上げたり、クライマックスでは風船を飛ばしたりと、趣向を凝らしてくれている。観客の滞在時間や清掃の手間を考えると、時間的、金銭的には劇場が損しているはずなのだ。

開催する側に、作品が好きで楽しみを共有したいという思いがあり、参加する側もそれに応える。エンターテイメントにエンターテイメントで、ホスピタリティーにホスピタリティーで。これはとても幸福な図式だ。

チケット販売は「瞬殺だった」そうだ。この先、こういうイベントが増えていくのだろう。開催者、参加者、双方への批判も出てくるだろう。同人誌即売会がそうであったように初めは純粋な思いで支えられていても、商業主義に走る者が現れたり参加者のモラルが問われたりするのかもしれない。

そうだとしても、今この時、塚口サンサン劇場や角川シネマの取り組みに参加させてもらえたことを、私は誇りに思いたい。新たな文化の誕生に立ち会えたことを、若い世代に繰り返し自慢してウザがられる婆さんになりたいと思う。

連れて行ってくださったRさん、Lさん、ありがとうございました。スタッフの方々はもちろん、そこにいたすべての人たちに感謝したくなるようなイベントだった。何度も言うようだが本とか映画くらいしか娯楽を知らず、クラブとかライブとかほぼ無縁だったので、生まれて初めて「今夜は最高!」と大きな声で叫びたくなるような夜だったのだ。音楽やダンスより本や映画に痺れるタイプの人間だって、たまにはそんな夜に溺れたい。

 

さて、多分TwitterとかでL&G上映への賛辞は何度も呟かれていることと思う。

せっかく貴重な参加権をいただいたのだから、ちょっとは毛色の違った感想も書いておくべきかもしれない。そんなこんなで、ここからは一シャーロッキアン見習いとして映画「キングスマン・ザ・シークレット・サービス」の内容に触れたい。需要があるかどうかは置いといて。

 

7回目とか5回目とか、手練れの観客ばかりの中で「たった」2回目の鑑賞だった私だが、クラッカーを鳴らすタイミングは心に決めていて、その一つが、主人公エグジーが教官のマーリンを「マイクロフト」と呼ぶ場面だった。

何でもホームズ関連の語句に「空耳」「空目」する習性があるので、本当にマイクロフトと言ったか確信がなかったのだ。しかし、よく聞いてもちゃんと「マイクロフト」と呼んでいたので、私は心おきなくクラッカーの紐を引いた。

IMDbを確認したところ、やはり「マイクロフト」はホームズの兄を意識したセリフだったようだ。マーリンを演じるマーク・ストロングがガイ・リッチーの映画「シャーロック・ホームズ」に出演していたことに由来するらしい。

あっ、と思った。キングスマンのボスになりすましているエグジーは、演技の一環として、パイロット役のマーリンに「おめでとう、マイクロフト。パイロットから執事に昇格だ」と言う。

マイクロフトが御者に扮してワトスンを送り届けるのは『最後の事件』だ。ホームズとワトスンが行きつくのはスイスの山中。エグジーとマーリンが潜入するパーティーの会場があるのも、どっかわからんけど、なんか雪山だ。

 

こじつけもいいところだが、もし『最後の事件』とこの話がつながっているとすれば、共通点はもう一つある。

ハリーとエグジー、ホームズとワトスン。関係性は異なるが、信頼関係で結ばれた二人の、片割れがいなくなるというところだ。

ハリーとエグジーは非常に親密だ。ほとんど疑似父子として描かれる。

エグジーは、血の気の多い若者に見えるが、その実とても素直だ。保護者としては頼れなくても愛してくれる母親には愛情を、軽視してくる義父には軽蔑を返す。信頼を向けてくる友人は全力で庇う。いじめにはきっちりやり返すが、引きずらない。性的な視線を向けてくるプリンセスの誘いには乗るが、男ばかりの候補者の中で孤立するロキシーには、女性ではなく友として対する(だから私は、彼のボンド的なプレイボーイとしての振舞いにさえ、欲望よりも無垢さを感じてしまう。彼は、望まれる自分を望まれるように返しているのだ)。もちろん、ハリーの強い愛情や信頼には、全力で応えようとする。

天才的な活躍を見せるエグジーに「何もできない」キャラクターの代表のように言われる(※追記2)ワトスンを重ね合わせては叱られてしまうだろうが、利他的なところはワトスンに似ているのだ。

自堕落になっていたワトスンは、ホームズに出会って自らの興味のきらめきを感じる。相手の存在のおかげで気持ちが引き立ち、感性が研ぎ澄まされる、というのはホームズにとっても同じである。しかし、ワトスンは家庭と言う新たな居場所を見つけ、ホームズのもとを去る。

 

ハリーの人物像は謎に包まれているが、コードネーム「ガラハッド」に象徴されるように、一貫して高潔な紳士として描かれる。

そのハリーがイライラとした表情を覗かせるのが、エグジーが愛犬を撃つことをためらって試験に落ち、キングスマンになることを諦めてひとり帰宅した時だ。ハリーは強引に彼を私邸に連れ戻し、感情を叩きつける。そこで呼び出されて、例のチャーチ・ファイトが始まる。

この時のハリーの大量殺戮に関しては「SIMカードを所持していないものにも影響がある」と劇中で説明されているが、私には、ハリーがエグジーに対する「個人的な怒り」を秘めていたことも少なからず影響していたように思える。

ヴァレンタインがスイッチを入れる前から、ハリーは感情的だった。聞くに堪えない差別的な説教に苛立ったようにカモフラージュされているが、意見を異にする人間たちの中にうまく紛れる経験は、これまでにもあったはずだ。心中には、エグジーに対する感情が燻っていたのではないか。

正気に戻ったハリーが自覚するのは、操られていた自分ではなく、その前の、私情に翻弄されていた自分だ。ハリーの死は、彼自身にとっては「キングスマンとしての自分の死」なのだ。

 

エグジーに対するハリーの怒りは、SHERLOCK第3シリーズでクローズアップされた「ワトスンに対するホームズの感情」と同じ種類のものだ。

唯一信頼できるパートナーであったはずの者、目をかけて育てたはずの者。一旦懐に入れてしまった相手が、一番根っこのところでは自分と同類ではありえない。その事実を知ってしまうということは、孤独な天才にとってはどんなに嘆かわしいことだろう。それはすなわち、完全に孤高でいることができない己の限界を知るということでもある。

 

しかし、だからこそ、ハリーの死はホームズの死と同様に、肉体の死ではない、と思う。ハリーが生きている根拠は劇中にもいくつか提示されているのだが、私は「キングスマン」の後半部を『最後の事件』に見立てる、という酔狂をやった上で、ハリーの「帰還」を信じたい。

エグジーは、ハリーを失った上で立派なキングスマンになった。

ワトスンは、ホームズを失った上で人気作家になった。

同じように、痛みを知った上で蘇る者には成長があるはずだ。

ヒーローは、全てを切り捨てた、ストイックで完璧な存在でなくてもいい。そうでない部分をこそ、私たちファンは愛する。

 

追記(2015年11月20日)

エグジーがマーリンを「マイクロフト」と呼んだくだりについて、「マイクロフトがマーリンの本名なのでは?」と友人から意見をもらった。

その可能性もあるが、仮にエグジーがマーリンの本名を知っていたとしても、敵地で唐突に本名を用いるというのは周到な彼に似つかわしくない気がするので、私は(メタ的な解釈を置いておくとしても)「ホームズ由来説」を取りたい。

エグジーはButlerではなくvaletという言葉を使っているので、本来は執事(従者の仕事に加え、屋敷全体のの業務を統括する)よりも従者(主人に付き従って身の回りの世話や秘書業務をする)という訳が適当なのだと思う。

従者といえばジーヴス&ウースター、と私はすぐに連想してしまうのだが、それは私の英文学の知識の裾野が短いからで、同様に「咄嗟に出した従者の名前」が「ホームズの兄・マイクロフト」というところに、エグジーの読書歴が見えてくるのかもしれない。

エグジーは「プリティ・ウーマン」を観たことはなくても、「マイ・フェア・レディ」はなぜか知っている。いかにも不良少年、という服装をしている一方で、キングスマンに並ぶ高級スーツにも憧れる。

無知でもなければ博識というわけでもない。下品なだけでもなければ、スノッブでもありえない。優等生的な資質を持ちながら、不良少年の社会に馴染んでいる。知識や興味のグラデーションにおける、ある部分がばっさり抜け落ちている、という感がある。

英国において、何を読んでいれば読書家っぽいのか、そのあたりの空気感は私にはわからないのだが、日本の青年に置き換えれば、今はヤンキー漫画雑誌に熱を上げる一方で、子供時代は読書を好み、新刊書は買ってもらえなくても学校の図書室にある本はよく読んだ、という感じではないだろうか。そうだとすれば、「シャーロック・ホームズ」のキャラクターが口をついて出てくるのにもうなずける。

マイクロフトが選ばれたのは「マーリン」と頭文字が同じで、格式の高そうな名前、ということだろうが、もしもそこに「最後の事件」を読んだ記憶が紛れ込んでいたとしたら、やはり自分にとって一番のヒーローであるハリーに、子供時代のヒーローだったホームズを重ねちゃったんじゃないの!?もしかしてだけど!もしかしてだけど!と言いがかりに近い妄想を重ねる私である。

 

追記2(2015年12月5日)

上記の記事中、「ワトスンが何もできないキャラクター代表のように言われる」というくだりについて、ツイッター上で「この記事を書いた人はワトスンを何もできない人間扱いしている」というご意見をいただいていると、友人から聞きました。

まず、ご不快な思いをされたことに対して謝罪致します。大変申し訳ありません。

これは長年ワトスンが好きだった私の「世間一般の評価に対する」実感であって、私自身がワトスンを役立たずだと思っているわけではないのですが、さまざまな作品がワトスンの素晴らしさを説いてくれている現在、一般論をそんな風に決めつけるのも乱暴だったと思います。

ツイッターのアカウントを持っていないので直接お話できず恐縮ですが(取ろうかとも思ったのですが、直接抗議なさっているわけでなく『呟いて』いらっしゃる方々に対してそれもまた不調法かなあと……)、これ以上嫌な思いをされる方が増えないよう、また、ツイッター上でワトスンの魅力を呟いてくださっている方々にどうにかして謝意をお届けできないかと、一縷の望みを託して追記させていただきます。

また、自身の表現力不足への反省の意味もあり、記事中の文は改正せずに追記のみさせていただいております。ご了承いただければ幸いです。

 


概要 | プライバシーポリシー | サイトマップ
Copyright © 21世紀探偵 All Rights Reserved.