すこし、イヤだと思ったこと

「久保みねヒャダこじらせナイト」というトーク番組がすごく好きで、レギュラー化される前からずっと録画して観ているが、先日少しだけ「好き」という気持ちに影が差した(たぶん、出演者のせいではない)。


「こじらせすき間ソング」というコーナーでは、例えば「節分の歌」とか「ゴールデンウィークに働かなくてはならない人の歌」とか、ニッチな需要しかない曲を、出演者たちが類いまれなセンスで作っていく。出演者はポップスへの造詣が深く、出来上がった曲はB'z風だったり、中島みゆき風だったりと、既存のアーティストへのリスペクトが込められている。

先日は小室哲哉風だった。「毛サバイバル」というタイトルで、小室テイスト満載の言語感覚と音楽に載せられたバカバカしい歌詞がたまらなく可笑しかったのだが、小室哲哉本人にコメントさせていたのには「ん?」と思った。

これって、小室が不快に思っていたとしても、その気持ちを出せないんじゃないか。本人たちの事情がよくわからないので余計なお世話かもしれないが、「馬鹿にされた気がするな」「嫌だな」と思っても、洒落のわからない男と後ろ指さされるよりはと、人気番組という長いものに巻かれるしかないんじゃないか。

弱者が強者をおちょくっているようでいて、結局は弱い者いじめをしているんじゃないだろうか。


私は小室哲哉の大ファンだったわけではないが、曲を耳にすると、学生時代がわっと蘇ってくるような興奮を覚える。番組はライブの中継という形式だったのだが、おそらく観客のほとんどにとっても同じだろう。でも、観客や視聴者にも、コムロに対してどこか侮りがあるのではないか。その曲を口ずさんでいた自分を過去の物にすることで、その時代を彩った人までも過去の遺物のように感じているのではないか。私たちが「その後」を生きているのと同じように、その人も「その後」を生きているのに、だ。

人をおちょくるのも侮るのも、一つの表現だし、表現をするなら自身が誰かの表現の標的になるのも覚悟しておくべきなのだろう。でも、「私たちはあなたが大好きなんですよ!だからこれはリスペクトなんですよ!笑って許してくれますよね!」という大義名分のもとに「おちょくっている現場」に本人を担ぎ出すのは、なんかやだな、と思う。

 

同じように「なんかやだ」と思ったことがあって、それは『コクリコ坂から』という映画の公式サイトで宮崎駿からの『メッセージ』を読んだ時だった。この『メッセージ』は「自分がいかに駄作を名作に仕立て直してやったか」という風に読めてしまって、私には不快だった。

「原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリ」「脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない」などの批判には共感するし、宮崎映画の「そうしないところ」が好きだ。ぶっちゃけ、原作より映画の方が好みだ。

でも、原作にもその時代ならではの輝きがあったはずだ。少女漫画には少女漫画の存在意義があるし、独自の作法がある。そこを全否定するような文章を公式サイトに載せるくらいなら、その原作使わなきゃいいじゃん。

他人の褌で相撲をとっといて、貸してくれた人に「褌って時代遅れですね。っていうか相撲つまんないんで、ボクシングしました」って言ってるようなものだ。

 

以前、アガサを騙したホームズむかつく、みたいなことをブログに書いて、その時代背景も考慮しなくては、とコメントをいただいたことがあった。私は「現代人の立場からの意見があってもいいはず」という旨の反論をしたが、私の書いた文章にも「やな感じ」があったのかもしれないな、と思う。私がホームズを批判しても弱い者いじめにはあたらないだろうが、後出しはいつだって、ある程度卑怯だ。

時間が経っているからこそ気づけることもあるから、後出し自体は悪いことじゃない。でも、現在の自分の価値観だけを基準にして、過去の物事を公然と笑い者にするのはやっぱりみっともないことなのかもしれない。

とはいえ、「みっともなくない」ことだけに拘泥していては、何も言えなくなってしまう。そのままの自分を見てもらうのも、表現ということなのだろう。

よく考えてから口を開く、というのは、いくつになっても自戒しなくてはいけないことだと思う。

みっともない、とかやだな、と人に思われないためではなく、自分で自分をそう思わなくて済むように。

 


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