感想を言わずにはいられない

読書感想文の季節である。

私は物心ついた頃から本を読むのが好きだった。しかし、読書感想文を書かされるのは苦痛だった。

大人の期待に応えたい一方で、どう書けばいいのかまるでわからなかった。お手本を理解して取り入れる賢さもなければ、心のままに綴るような奔放さもなかった。

 

自分でも不思議なのだが、感想文を書かなくてもよくなった今、何故か頼まれもしないブログを綴っている。

人の感想を読むのも大好きになった。感想を書いたり読んだりするということが、いつの間にか小説や映画を楽しむことの一部になっている。

 

『マッド・マックス~怒りのデス・ロード』は、感想や考察を誘発する映画だ。さまざまな人がそれぞれの視点から感想を書いてネットにアップしている。

最初は大興奮!とかすげえええ、とかV8!V8!とか、「単語の感想」を言いたくなるが、だんだん「自分はこの作品のどこに惹かれたのか」と考えさせられる。人の感想を読んでなるほど、と思い、もう一度映画館に行く。即効性のアドレナリン誘発剤のような映画と思わせておいて、実は遅効性の毒も仕込まれていて、あっという間に中毒にさせる。

二種類の毒の正体は、すでに語り尽くされていると思うが、手っ取り早く言うと「キャッチーさ」と「奥深さ」で、どちらかだけではダメなんだろう。

「薄っぺらい作品」という表現は、入口が一つしか見当たらず、入ってもその先がなかった、という気持ちの表れだと思うが、この映画においては、背後に作りこまれた世界の発露としてのかっこよさ、かっこよさに説得力をもたらす世界観が相互に作用して、きれいな立方体として結晶している。あらゆる面にファンが取り付き、よってたかって研磨することで何面体にも進化し、最後には球体になる(それって、もはや宗教かもしれないが)。

 

私がどんな入り口から入って何を感じたかも書いておきたい。

私の住んでいる地域はおそらく日本で一番暑く、もし冷房がなかったら、体力のない者から順に死ぬ。子供のころは「贅沢品」だった冷房が、もはや生命維持装置である。

熱中症癖のある私は、ぼーっとした頭で「電気代が払えなくなった時が私の寿命かもしれない」と考えてしまう。

大げさに聞こえるかもしれないが、暑さには逃げ場がない。サウナに閉じ込められたような不快感がどこまでも続き、体力も思考力も落ちていく。頑健な体を手に入れるか、対価を支払って生命維持装置のスイッチを入れない限り、生き延びることはできない。「冷房を適切に使ってください」ってなんだ。使えないなら死ねと言うのか。これって既に立派なディストピアじゃないか。私たちは、最悪の未来に向かって緩慢な自殺を続けているんじゃないか。

 

『マッド・マックス』はディストピアをかっこよく描いていた。

過去の人たちが犯した過ちのせいで短命にされ、搾取者への妄信にすがって生きている人たちをかっこよく描いていた。その絶望的な状況を打破しようとする人たちをかっこよく描いていた。ついでに独裁者たちまでかっこよく描いていた。彼らの圧倒的な生き様を見てしまったら、漠然とした不安など吹き飛ばされる。

『マッド・マックス』を観た帰り、電車の暗い窓に映る私は、ほんのちょっとだけフュリオサ大隊長だ。

げっそりした、将来を悲観した、他者への不満ばかり募らせた中年のおばちゃんじゃない。静かな怒りに満ち、状況に負けない意志と弱い者を庇う覚悟を持った、背筋の伸びた中年のおばちゃんなのだ。

そういう風に人を鼓舞する映画って、やっぱりすごい力があるのだと思う。 


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