鑑賞という芸術

つい先ほど、「びじゅチューン」DVDをamazonで購入した。

 

「面白いな」「もっと観たいな」「手元に置きたい」という動機でDVDを購入したことは、これまでにもある。しかし、今回はちょっと違って「あんたの才能に、私はお金を払う!払わせてくれ!」というニュアンスがある。

 

3000円足らずでパトロンヌ気分かよ、と言われそうだが、ワーキングプアの私にそんな錯覚を抱かせてしまう井上涼という人はすごい。

何度もブログの日記欄に書いているが、もともと「びじゅチューン」は好きだった。しかし私の経済状況では、テレビやネットで鑑賞できるものをわざわざ購入する余裕はない。DVDも買う予定はなかった。

 

パトロンヌ気分が爆発したきっかけは、「紅梅図屏風グラフ」という作品だ。

それまで私のベストワンだった「樹下鳥獣図屏風殺人事件」では、方眼状に区切って彩色された絵 をパズル(謎)のピースに例えていた。そこまではまだわかるが、梅の枝が折れ線グラフに、敷き詰められた正方形の金箔がグリッド線に見えるって。あんた天才か。天才だろ!

 

私は読書が好きだし、美術館に行くのも好きだ。

でも、作家や画家を「天才」と表現したことはない。

単純に、わからないのだ。誰が天才で、誰が天才じゃないか。どれがすごくて、どれがすごくないのか。確信を持って言えるのは、「好きか嫌いか」だけだ。

井上涼を「天才だ」と言ってしまえるのは、「鑑賞する者同士」でもあるからだと思う。同じ作品を見ても、私はあの屏風に折れ線グラフを見出すことはできない。ゆえに井上涼はすごい。心から尊敬する。

 

創作者としての彼が天才か天才じゃないかは、断ずることができない。「びじゅチューン」は大好きだし、彼の歌は毎日口ずさんでいるし、発想も表現力も素晴らしいと思うけど、仮に「美術を歌にする人評論家」が現れて理路整然と「びじゅチューンがすごくない理由」を述べたとしたら、反感を抱きつつも「そうですか」と言ってしまうかもしれない。私は創作者じゃないから。ぶっちゃけよくわかってないから。

でも、もし「仕事をする」こととか「ブログを書く」ことが創作のはしくれであるならば、私は井上涼のような創り手になりたい。

「びじゅチューン」は一応教養番組だと思うが、難しい理屈など一切出てこない。紹介する作品を、彼の目で見て、彼が面白いと思い、そこから産まれてきたものだけが、ばーんと叩きつけられる(感触としては、ふにゃっと差し出される)。

 屏風絵が折れ線グラフ、というのは「正しい解釈」では絶対にないだろう。しかし、正しさが何だというのだ。そんなもんちょっと検索すればいくらでも出てくる。

彼がそれぞれの作品を深く理解し、広範な知識を持っているという事実は、作品の端々から読み取れる。しかし、知識の切り貼りや既存の解釈の羅列は、人を惹きつけない。

「びじゅチューン」が教えてくれるのは、美術の知識ではなく、鑑賞という行為の楽しさそのものだ。創作も、鑑賞も、本来は個人の楽しみであると思う。そこに他人を巻き込むことができるのは、やっぱりすごいことなのだ。

私も、小理屈を唱えなくても本質を伝えられる仕事をしたいし、「物知りなブロガー」よりも「ドラマ鑑賞や読書の愉しみを伝えられるブロガー」になりたい。しかしそうなるには知識を得ることが大前提なので、仕事関係の皆さまにもブログでお世話になってる皆さまにも引き続きご教示賜りたく思います、と土下座する次第であるわけだが。

 

ところで、初版分には、DVDについているハガキを送ると井上涼が好きなキャラクターを描いて返送してくれる、という、後世の人が聞いたら泣いて悔しがりそうな特典がついていたそうだ。

もし描いてもらうとしたら、誰を選ぼうか。

機嫌のよい時「かみがた~をかえたい~の♪」と思わず口ずさんでしまうのに収録されなかった「ファッショニスタ大仏」をお願いして、次巻への収録希望をアピールするか。正統派美少女「真珠の耳飾りのくノ一」で行くか。好きなキャラは「アイネクライネ唐獅子ムジーク」の作曲家コンビなのだが、描線が多くて描くのに時間がかかりそう。リクエストはたくさん送られてくるだろうに、うっとおしがられないだろうか。

……たかが購入特典なのに(しかも実際もらうわけでもないのに)、「このキャラクターを選ぶとは、わかってるな」と井上涼に思われたい、という自意識がバリバリに働いている。

自らの意思を表明するという行為は、どんなに小さなことでも、表現の始まりなのだろう。

 

 


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