不用意な想像

「SHERLOCK」に関することは「21世紀探偵」の方に書くべきなのかもしれないが、なんとなく(より個人的な雑記である)こちらに書きたい、と思うことがある。

それは特に共感や承認を求めていない……いや、だったらネットに書かなきゃいいので承認欲求はそれなりに伴っているものの、どちらかというと「問いかけたい」よりも「吐き出したい」という動機によって書いた文なのだと思うが、その分類基準は自分でもよくわからない。

しかし、この記事をこちらに書いた理由ははっきりしている。「腐女子」的だからだ。

とはいえ、私はシャーロックとジョンが性的な関係を持つことにも、「腐女子」と呼ばれることにも抵抗はないつもりだ。

「腐女子」とは、「そういう見方」しかできない人、という目で見られがちだが、私の知る「腐女子」たちは、対象を鑑賞するうえで「腐女子的な視点」と「そうでない視点」を巧みに使い分けていると思う。鑑賞眼のチャンネルが一つ多い、とでも言おうか。

何と呼ぶのかは知らないが、女性同士の恋愛に「萌える」人たちにも同じことが言えるだろう。部外者の嫌悪感と本人たちの自虐的な自己演出が相まって必要以上に反社会的な存在になっているのは、色々な意味でもったいないことだなあ、と思う。性的なことに関する言動に理性が求められるのは、異性愛者も同じことなのに。まあ、反社会的な世界だからこそ惹かれる人もいるのかもしれないが。

いずれにしても、性に関することは生理的な嫌悪感に直結している。腐女子と思われるのが嫌なわけでも、腐女子が嫌いなわけでもないが、そういう話題への「心の準備」のない人の居心地を悪くするのは不本意なので、やはりこの記事は「日記」に書きたいと思う。

前置きが長くなった。「21世紀探偵」の記事も内容がシャーロックとジョンの関係性に偏っているので、見る人が見れば十分に「腐っている」と思うが、ここではストレートに二人の間の恋愛感情について書きたい。

そこに触れない限り、あの場面が解釈しきれないと思うからだ。

 

結婚式前夜、色々あって二人はひどく酔っぱらっている。つまり、言葉の上での駆け引きができない、少なくともそれが困難な状態になっている。

スタグナイトだから律儀にそうしているのだろうが、二人はパーティーゲームを始める。初級英語の授業でもやるような、単純極まりないゲームだ。

まず、物や人の名前を書いたカードを額に貼る。貼られた本人には、自分に何のカードが付けられたのかわからない。周りの人間に質問をして、「自分は誰なのか」を導き出す。

独身最後の夜に二人にこのゲームをさせるのは、お互いについての思いを正直に述べさせるためだろう。相手にとって、自分は何者なのか。どういう存在なのか。それを確かめ合う場面だ。

 

シャーロックの額には「SHERLOCK HOLMES」と書かれたカードが貼られている。ジョンが書いたカードだと思うが、おそらくこの場合の「シャーロック・ホームズ」はシャーロックの名前というよりも、有名な探偵としての「シャーロック・ホームズ」であり、"The Empty Hearse"のラストシーンで、記者会見に臨むシャーロックが帽子をかぶって「さあ、シャーロック・ホームズになる時間だ」と言った方の「シャーロック・ホームズ」だ。

「シャーロック・ホームズ」言い過ぎて何が何だかわからなくなってきたが、二人が改まって「シャーロック・ホームズ」と言った場合、それはシャーロックが事件を解決し、ジョンがブログを書くことで二人が作り上げた「シャーロック・ホームズ」という人物像なのだ。

しかし、ジョンは作者の片割れであるにもかかわらず、「シャーロック・ホームズ」を理解しきれていない。彼にとってそれは、依然としてシャーロック自身でもあるから。

もちろんシャーロックにも理解しきれない。ジョンの語る「シャーロック・ホームズ」像を聞いて「それは君だ」と結論付けたのは、おそらく本心だろう。「シャーロック・ホームズ」の半分は「ジョン・ワトスン」なのだから。

未完成のままの「シャーロック・ホームズ」をシャーロックに残して、ジョンはシャーロックのもとを去ろうとしている。見ようによっては、とても残酷なことであるが、誰も断罪はできない。

「犯人」は一人もいないのに、悲しいことが起こる。この世界ではそういうことがたびたび起こるが、この二人には解決できない。犯人がいて、事件が起こって、依頼人が来ないと「シャーロック・ホームズ」は何もできない。ある意味では、とても無力な存在だ。

 

ジョンの額には「MADONNA」というカードが貼られる。

有名な歌手の名だが、当然、崇拝の対象となる「聖母」も連想させる。

"His Last Vow"でマグヌッセンはジョンをシャーロックの「damsel in distress(嘆きの乙女)」と表現する。これまで多くの人を「誤解」させてきたが、本人が否定しても、周りの見方ではジョンはシャーロックの「恋人」なのだ。

そもそも、友情と恋愛の境目とはなんだろうか。定義するのは難しい。人間関係の定義は本人たちの主観次第だが、時に客観のほうが本質をついていたりする。

ジョンはシャーロックに"Am I a woman?""Am I pretty?"と問いかける。

異性愛者のジョンが発した場合、Am I a pretty lady?という問いは、「(男性である)君にとって、僕は恋愛対象になり得るのか」という質問にも受け取れはしないだろうか。

シャーロックの答えは "Beauty is a construct based entirely on childhood impressions, influences and role models."

「美とは子ども時代に受けた印象、影響とロールモデルで 決まる概念だ」

と彼らしいが、どんな意味においてもジョンの質問に答えていない。酔っているせいか、それとも、わざと答えていないのか。

そもそも、数年にわたる付き合いにおいて、この二人は恋愛やセックスの話をしたことがあるのかな、と考えてしまう。A Study in Pinkのアンジェロの店の場面で、ほとんど初対面に等しい二人がお互いを探り合う場面はいかにも遠慮がちだった。ジョンには次々にガールフレンドができ、シャーロックはそのことを正確に把握しているが、妨害しようという意図は見えない(結果的に邪魔してしまうことはあるが)。シャーロックとアイリーンの関係においても、ジョンとメアリの関係においても、二人はお互いの恋愛について否定も肯定もしない。というより、お互いその領域に踏み込むのを避けているように思える。原作でホームズがワトスンの結婚に「おめでとうは言わない」と言ったように、あるいはワトスンがホームズとハンター嬢のロマンスを願ったようには、踏み込まないのだ。それは、男性同士の友人関係において、一般的なことなんだろうか。シャーロックが女性に興味を示さないことを差し引いても、デリケートというか、わりと気を遣ってるんじゃないだろうか。

もちろんドラマに映ってない場でガンガン猥談してた可能性もあるけれど、少なくとも確認できる限りでは、そういう話題を持ち込むことに関して、二人は過剰に清潔だ。

そういう背景を踏まえて見ると、この場面はちょっと際どい。ジョンもシャーロックも「気遣い」を捨てて、かなり無防備な姿を相手に晒す。じっと相手を見つめたりもする。ジョンはより率直に、シャーロックはより素直になっているように思える。

ジョンはいきなり"Am I a vegetable?"(僕は野菜か)と問いかけるが、vegetableには異性愛者という意味もある。シャーロックはおそらく「二つの意味」を捉えていて、"You or the... thing...?(『君自身か、それともそこに書かれていることか』)"と反応する。また、よろけたジョンがシャーロックの膝を掴んでしまうが、シャーロックはわざわざ"I don't mind."と言う。ちょっと、妙な空気ではないか。さっきまで折り重なって階段で寝てたのに……

 この夜、二人が恋愛関係に転んだ可能性もあったのかもしれない。おそらく無意識にだと思うが、ジョンは、友情よりも恋愛を選んで去っていく者として、最後のチャンスをシャーロックに与えたのかもしれない。シャーロックにもまた、同じような意図があったのかもしれない。

いずれにしても、二人がそうなることはなかったわけだが。

 

ここに書いたことをこの脚本を書いた人たちに問いかけたら、巧妙に否定されるだろう。「シャーロックとジョンの間に恋愛感情はない。想像するのは勝手だがね」というのが賢い彼らのスタンスだから。

でも彼らは、私たちが知っていることを知っているはずだ。そもそもこの作品は「想像する」ことから生まれたと。

自分にない想像を持った人を糾弾するのも、カテゴライズしたりされたりすることで優越感や自意識を持つのも自由だ。しかし、どんな想像であれ、想像をした時点で私たちは皆「共犯者」なのだ、と思う。


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