誰かの幸せを祈るということ(映画『ホビット』」3作目感想)

私は、トールキン作品が苦手な子供だった。

意外な展開よりも予定調和を望む、自分の理解の範疇外に物語が転がっていくのを恐れる、そういう子供だった。

私の「常識」では、主人公は竜を倒して宝物を取り戻さなくてはならない。

湖の町の人たちは、勇敢なドワーフたちに協力しなくてはならない。

ビルボはドワーフたちと仲良くなったのだから、エレボールでいつまでも幸せに暮らすのだ。


しかし、この物語はそんな風に綺麗に収まってはくれない。

トーリンは死に、湖の町は焦土と化し、ビルボの家財道具は競売にかけられる。ついでに言わせてもらえば、私自身の人生も王子様に出会ったり大金持ちになったりしてハッピーエンド、というわけにはどうも行かなそうである。


負け惜しみかもしれないが、幸せでない、ということは、いいことでもあるのだ。幸せの外にいると感じるときにだけ、幸せというものの形が見えるからだ。

物語はいつも、幸せの外に転がり出てしまった人たちが、幸せを掴む、あるいは取り戻すために始まる。

その願望は「欲」と呼ばれることもある。欲は人を動かしてくれるが、時にひどく人を苦しめる。

欲の対極にあるものは、自分ではない誰かの幸せを祈る、ということなのかもしれない。


自らの中に潜む欲に打ち勝ったトーリンは、ビルボに「本や肘掛椅子が待っているぞ」と告げる。

かつてビルボが「君たちの気持ちがわかったから、手伝いがしたい」と言ったように、トーリンもビルボの望みがわかっていた。わかっていただけではなく、共感し、叶えてやりたいと思っていた。本来の彼は、そういう人だった。


初めにそれを見せてくれたのは、ドワーフの一人であるボフール。

彼は、王族ではなく、戦士ですらない。しかし、自分たちに不信と不満を抱いて逃げ出そうとするビルボに、何の迷いもなく「幸せを祈ってる」と言ってやれるという美点を持っている。

ボフールの優しさが、ビルボを変えた。変わらなければ、ビルボはトーリンを救えなかった。

結局、すべてはつながっている。

そして、次の世代へも続いていく。

前の世代がかなえられなかったことを、次の世代がかなえていく。

自分と全然違う人でも本当に大切に思える、つまり無私になれるというのがこの作品のテーマのひとつだとしたら、異種族の二人がお互いの幸せを祈る、というのはその究極の形かもしれない。

ビルボとトーリンの友情、キーリとタウリエルの恋は悲しい結末を迎えたが、それを見ている人がいる。伝え聞く人もいる。ビルボやタウリエルの悲しみは、レゴラスとギムリの友情や、私のまだ知らないたくさんの登場人物の幸せというかたちで報われるのだろう。どんぐりが芽吹いて、大きな木になり、たくさんの実を結ぶように。

そのどんぐりとは、ボフールの優しさのように、素朴な、小さな、どこにでもある、しかし何よりも尊いものなのだろう。


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