「SHERLOCK」の「居心地悪さ」

北原尚彦著「ジョン、全裸連盟に行く」を読んだ。

とても楽しかった。事件の構造がドラマよりしっかりしていると感じた。シャーロックとジョンのやりとりも軽妙で面白い。

個人的に嬉しかったのは、読んでいて心地良かったことだ。

ホームズの舞台は  ロンドンの下町、テムズ河、ダートムアの湿地と多岐に渡るが、221Bというホームがある。どんなに陰惨な場面でも、暖炉に火があかあかと燃え、お気に入りの椅子にかけて煙草をふかしたり、本を読んだりしているホームズやワトスンの場面に戻ってくるという、安心感がある。

どんな事件でも、ホームズはちゃんと解説してくれる。そして、ワトスンは読者と同じように、「ちゃんと、わからない」。

スマートフォンやインターネット、ネットスラングは「SHERLOCK」の時代のものでも、この作品は「正典」のコージネスを受け継いでいる。

 

ここに、ドラマ「SHERLOCK」とこの作品の違いが見えてくる。

「SHERLOCK」はどのエピソードも必ず「クリフハンガー」または新たな脅威、新たな謎を提示しながら終わることに象徴されるように、わざと視聴者を「居心地悪く」させている。

 

私は第1シリーズから第3シリーズまで、原作とドラマを見比べ、ドラマがどの程度原作を踏襲しているか考えている。非常に拙い作業ではあるが、ひとつわかったことがある。それは、「元ネタ探し」にゴールがない、ということ。かっちりと、綺麗にピースがはまるようには作られていないのだ。

 シャーロックは原作のホームズをモデルにしてはいるが、ホームズの性格はマイクロフトにも振り分けられている。いわゆる「ワトスン役」の枠を超えた活躍をジョンが見せることもあるし、ワトスンの役割をレストレードが担っていることもある。メアリに至っては、原作よりオリジナル要素の方が上回っている。単純に原作の登場人物を引き継ぐのではなく、性格の一部分を増幅させたり、解体・結合させて、新たなキャラクターを作っているのだ。

エピソードの扱いにも同じことが言える。

「ピンク色の研究」の元ネタは一応「緋色の研究」とされているが、単純に一つの作品が一つの作品の元ネタであるわけではない。どの作品も細かく解体され、再構成されている。

フランケンシュタインの怪物のように、切り刻まれ、不穏なかたちに造形されているのだ。原作を知っている者も、知らない者と同じ不安感を持って観なくてはならない。

 

原作の持っている安定感を崩す一方で、不安定さは再現しようとする。

ワトスンの名前や傷の位置の矛盾に合理的な回答を提示して見せたりもするが、時系列の矛盾やシャーロックのサバイバル方法、ジョンのブログに散見される「語られざる事件」などは、わざと曖昧にしてある。そういう部分にファンが躍起になるのを、確信してのことだと思う。

 

そして、「作り方」。第3シリーズではジョンの妻やシャーロックの両親に俳優の実際の家族をキャスティングしたが、あれは冒険だったのではないだろうか。イギリスのショービズ界の空気は良く知らないが、どれだけスタッフが「役に合っているから配役したのだ」と言い張ろうと、俳優のプライベートを持ち込むのは、「作品の質の追及を放棄した」という誹りを免れないはずだ。個人的な感想を述べれば、フリーマンのパートナーもカンバーバッチの両親も好演だったとは思うが、「この役は絶対に、この人でなければダメだ」とまでは感じなかった。

これだけの名声を得ておいて、なぜ、あえて「おままごと的な」ことをするのか。人気に胡坐をかいている、とも、逆に話題作りに必死になっている、とも言われているだろうが、その目的は好意的な評価を振り払うこと自体にあったのではないか。

その根底には、シリーズを重ねても「名作」になりたくない、視聴者の期待を良くも悪くも裏切り続けたい、という、ひねくれた中学生のようなマインドがあるのではないか、と邪推している。

(悪いことだとは全然思わない。ひねくれた中学生の素養なくして、誰が『ホームズ』を愛するものか)

「ひねくれ」とは、「最高傑作」と称される正統派グラナダ版ホームズへの反骨精神かもしれないし、逆に、そのポジションを尊重したいという敬意の表れかもしれない。アメリカPBSで放映された時のファンとのチャットだったか、モファットとゲイティスはシャーロックの年齢を聞かれて「8歳」と答えた。製作者が自分たちのホームズに施した「子供」という位置づけは、そのまま彼ら自身の立ち位置を表していたのかもしれない。

 

もっとも、原作にコージネスを感じるのは、完結してから時間が経っているからであって、リアルタイムで読んでいた読者は、私たちが「SHERLOCK」に感じているような不安を感じたかもしれない。

そして、あと数十年して「SHERLOCK」が「過去の名作」になる頃、後世の視聴者はシャーロックとジョンの不器用なつながりや、どことなく殺風景な部屋にコージネスを感じるのかもしれない。

北原氏の作品に心地よさがあるのは、原作に対する読者の「居心地悪さ」を補正しようとするシャーロッキアンの視点で書かれた作品だからでもある、と思う。「居心地の悪さ」にこだわる「SHERLOCK」とは、そこが違う。

言うまでもなく、どの作品にも「ホームズとワトスンの友情」というしっかりとした軸は感じられて、そこには揺るがないコージネスがあるのだけれど。 


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