「花子とアン」最終回

先日、アメリカ人の友人が泊まりに来た。

夕食後にローズティーを出したら、「どうして日本にはバラの匂いのものがいっぱいあるの」と不思議そうな顔をされた。

二人でバラの匂いのするものを列挙してみる。バラの香水、化粧品、石鹸、シャンプー、ルームフレグランス、洗剤、入浴剤、トイレットペーパー……

日用品に「香り」をつけるとしたら、バラの香りは選択肢の第一に挙げられるのではないだろうか。アメリカではそうでないのだとしたら、逆に驚く。

だが、彼女がそう来るなら私にも言いたいことがある。なぜ、アメリカ人はあそこまで「キュウリの香り」を推すのか。

「変じゃないよ!キュウリはいい香りだよ!」「バラの方がいい香りだよ!キュウリは…ほら、キュウリは食べるものじゃん!」「それはミルクもそうでしょ!バラは女っぽすぎるよ。香水ならわかるけどケア用品には合わない!」

もう「感覚の違い」としか言いようがないのだが、私はこういう不毛な争いをしている時、ものすごく楽しい。「ぞくぞくする」と言っても過言ではないかもしれない。

 

次の日、職場の飲み会で、別のアメリカ人の同僚に「さつま揚げ」を説明していたら、"fish cake"という言葉に、日本人の先輩が驚いた顔をした。ケーキは甘いもの、というイメージがあったそうだ。

本当に個人的なイメージだが、cakeとは、物の名前というより形状を表す言葉のような気がする。何かが、みっしりと固まっているイメージ。そして、私にとってはその「何か」は、なんだか素敵なもの、という感覚がある。

たぶん、これは「資生堂ホネケーキ」のイメージだと思う。親戚が近所で化粧品店を営んでいたため、私は販促品のあまりをもらっては綺麗なケースや瓶を眺めて楽しんでいた。「ホネケーキ」は色のついた半透明の石鹸で、まるで大粒の宝石のようだった。私はホネケーキを持ち物の中でも最上ランクの宝物と位置付けていたので、誕生日に食べる特別なお菓子と特別な宝物が同じ名前を持っているのは、とてもしっくりくることだった。

 でも、人によっては、石鹸は別に心ときめくものではないかもしれない。辞書で調べてみると、鉱床や氷も a cake of で数えられるようだ。

すると、cake=甘いお菓子、と考えるのも、cake=素敵なものの塊、と考えるのも、間違いであることになるが、私はこの「個人の感覚」と「共有される感覚」の境界線に興味がある。

 

言葉に背負わせる感覚は、国や地域によっても違うけれど、個人によっても違う。自分の持っている感覚は、どこまで他人と共有できるのか。まだ自分の知らない言葉は、どんな感覚を背負わされているのか。それを知るための案内役として、辞書がある。辞書は世界を知るための案内役だ。

 

「花子とアン」で、主人公がわからない言葉に出会うと、辞書を引きたくて居ても立ってもいられなくなる気持ちは、とてもよくわかる。その言葉は一旦置いておいて先を読み進めるという手もあるが、どうしても「今」

知りたいポイント、というのはあるのだ。すぐにスマートフォンで検索をかける人は、共感できるはずだと思う。

言葉を知ることは、他者を知るための手がかりだ。その喜びが「辞書のある場所に向かって駆け出す」というアクションをもって描かれたのは、とても良かったと思う。

人を結びつけるための手がかりとして、主人公の武器であるはずの「言葉」があまり活用されず、魅力的なキャラクター達や彼らの「言葉」が雑多に放り込まれたまま整理されなかった感があるのは残念だが、私にとっては毎朝宝箱を開けるような半年間だった。

「言葉」の仕事を映像化するのは難しいのかもしれないが、「推理」を可視化した『SHERLOCK』が現れたように、また誰かが果敢に挑戦してくれたらいいな、と思う。

 


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