2016年

9月

28日

「しない」ことで描く幸せ

2016年前半は、旅行で国際線に乗ったこともあり、私にしては比較的多くの新作映画を観たのだが、ダントツに幸福な気持ちになれた映画はリブート版『ゴーストバスターズ』だった。

(ちなみに鬱々とした映画は『ロブスター』な。アレほぼ現実だからな、私にとっては)

 

前作との比較や女性映画としての分析にもすごく興味があるので、今後ネットで感想を漁りまくる所存だが、この胸熱が冷めないうちに、「どうしてこんなに幸せになれるんだろう」という気持ちを綴っておきたい。

実は、「そんなこと描くんだ!」よりむしろ「そこ描かないんだ!」ということに感動してしまった。

 

1.恋愛しない

この作品の宣伝が始まった時、なんかこう、「仕事に恋に頑張るワタシ」みたいなのを想像してた(そういう映画も好きです)。

「地味なオタクだった私が、頑張ることでキレイになれました」「恋愛なんて興味なかったけど、わかってくれる男性もいる」みたいな。「いくつになっても、オンナであることを諦めちゃダメ」みたいな。伝わるだろうか、このカタカナ遣いも含めて。

 

だって日本版公式Twitterのプロフィールが「オトコには弱いけど、オバケには強い理系女子が起業した……」だよ。

そりゃ彼女たちが「オトコには弱い」だろうな、とは容易に想像できる。オトコどころか対人関係全般ダメそうだ。

非リア充として、彼女たちのスタイリング、すごい生々しいと思う。

地味な者(でもカワイイ物好きで、長靴なんかはカラフルなの履いちゃう)、あまり構わない者、世間一般の支持するところの斜め上に突き抜けてく者。

いずれも「モテ」からは遠い。私の服装歴見てたのか、と言いたい(※全部やって現在アビー)。

そうやって「見てわかる作り」になっているものの、この映画は彼女たちに恋愛コンプレックスを語らせない。今彼女たちが直面しているもの、考えていることは、それじゃないからだ。あとエリン、お前のそれただのセクハラオヤジだが、めっちゃ共感するぞ。

 

2.リア充にならない

 この映画の主要登場人物は何かしらのオタクばかりだが、色々な意味で多数派に迎合しない(できない)ゆえに、彼ら彼女らが受けてきた「いじめ」がストーリー全体の前提となっている。

同じように「世界」から弾かれていたローワンとそんなに変わらない状況下で生きてきたろうに、自然に「世界が危ないから救おう」と考えるバスターズと彼との違いってなんだろう。何か決定的な要因がありそうなのだが、少なくとも映画の中では、それも描かれない。

それもいいかと思う。迷子の小動物を救おうと奔走するオタクも、自らの承認欲求に苦しむオタクもいるし、この二つの感情は一人の人間の中に同居すると、私たちは現実世界を通して知っている。

オタクは、世界を滅ぼすパワーも救うパワーも持っている。その一方で、市長たちのように「表世界」でバランスをとる役だって必要だ。この映画は誰も否定しない。

 

3.人に要求しない

「否定しない」といえば男性秘書(?)のケヴィンだ。

ケヴィンの強烈過ぎるおバカキャラは、長年かけて築かれてきた「可愛いだけのブロンド娘」像に対抗するために必要だったのだろう。でも、彼はその役割のためだけにいるんじゃない。

ケヴィンの美点は、主人公たちを品定めしたり否定したりという発想を一切持たないところだ。この作品が発表されて以来、新生バスターズが女性であることや、彼女らの年齢・容姿へのバッシングが後を絶たないらしいが、そういう人たちの対極に彼はいる。

ゴースト・バスターズの面々やローワンは「キモヲタ」で彼は「イケメン」だが、自分や誰かを社会の価値観と比較してどうこう、という発想が誰よりも薄い(ていうか、ない)のがケヴィンだ。私だって他人を品定めするので自省も踏まえて言うが、これって、すごいことだ。バスターズが「大好きだからケヴィンを助けたいんだ」と言うのには、ちゃんと理由がある。

 

そう、人間には「好きになる」という力がある。

エリンもアビーもホルツマンもパティも、(下ネタも言うしセクハラもするけど)純粋な愛情に溢れた女の子たちだ。その対象がおバカでもいい。男性でなくたっていい。自分の子どもでなくたっていい。人間でなくたって、別にいい。

エリンの変化がそう教えてくれる。彼女の仕事や仲間への思いが高まるのに反比例して、自分の正しさを証明したい、社会に肯定して欲しいという思いが薄くなっていくのが見てとれる。最後に残るのは、ただ「やりたい」「やった」「できた」というシンプルな喜びだ。

やりたい仕事がある。下ネタ……もとい本音を交わせる仲間がいる。多分、それだけで十分幸せなのだ。ワンタンの数は譲れないけど。

 

幸せとは、自分の力を思いっきり注げる「何か」があること。

その「何か」を変に限定しようとする価値観を、自分がいかに内面化してしまっていたかを痛感している。

オンナだったら、恋するべきだ。

オタクだったら、リア充に引け目を感じるべきだ。

オトコだったら、常に女の上をいくべきだ。

安定した仕事に就き、誰からも肯定され、認められて生きるべきだ。

『ゴーストバスターズ』は、そういう窮屈から私を解放してくれる。

 

 

私は、女も男も、リア充もオタクも、否定したくない。恋愛することもしないことも、否定したくない。恋と仕事を両立するのはもちろん素敵だけど、しなくたっていいのだ。

他人の評価から自由になって、自分で選んだ「何か」を思いっきり愛することができたら、きっと幸せだ。ローワンですら、彼を蔑んでひそひそしていた周りの人たちよりずっと楽しそうに生きていたと私は思う。エンディングのクリヘムダンス、あれケヴィンじゃなくてローワンだもんね。

 

ただ、ローワンには「愛」が欠けていた。

登場人物のトラウマを過剰に描写しない、必要以上に自分語りさせないのもこの映画のいいところだが、最後の最後に「愛について」熱弁するのがホルツマン、ていうとこが痺れる。

そしてラストシーン、彼女たちへ「世界」からの心温まるプレゼントがあるのがまた粋だ。オトコにではなく、誰かに押し付けられた物差しにでもなく、でも確かに「世界」に向けられている彼女たちの愛情は、決して片思いじゃない。

 

2016年

4月

30日

みんなが持ち場を守ること

『アイヒマン・ショー』を観た。

「興味あるけど、ホロコーストの資料映像を含んでいると聞いたので、観る勇気が出ない」と言う友人がいるので、感想は彼に向けて書きたいと思う。

 

強制収容所のショッキングな写真や映像が出てくるが、この映画はホロコーストそのものを描いているわけではない。直接描かれているのは、かつてホロコーストに関わった人々と、その周縁に点在する人々だ。

周縁と書いたが、円の中心にいるアイヒマンが真っ黒な存在で、そこを起点に少しずつ白くなっていくようなグラデーションが描かれるわけではない。

 

法の定義は置いておくとして、ある出来事に関わった人々のうち、誰までを当事者と呼べるだろう。裁判を報道することに道義的責任を感じる一方で、視聴率稼ぎの「ショー」とも捉えているプロデューサー。アイヒマンの感情を暴き出すことに固執する監督。『ガガーリンの方が面白い』と笑い飛ばした後で、被害者の証言に打ちのめされる視聴者もいた。その背後には、生存者の体験を信じずに傷つけた、大勢の人々がいた。彼らはホロコーストとまるきり無縁と、いえるだろうか。

 

友人に向けての、私なりの結論を書くと、この映画は怖い。

加害者への憎悪や、被害者への同情を煽ることはない。しかし、裁判を見ている善でも悪でもない人々を描くことで、それをまた見ている「実在の」私たちもその延長線上にいる、つまり、黒ではないにしても白でもないことを、思い知らせてくる。

だからこそ、終盤に現れる「実在の」生存者の証言や死体の山の写真は、怖い。それは、スクリーンの向こう側にいる演技者たちではなく、こちら側の世界の私たちに起こった……だけでなく、私たちに起こるかもしれない、私たちが起こすかもしれない出来事だと、この映画は言っているのだ。

 

この世界に起こるすべてのことにおいて、私たちは加害者であり、被害者だ。当事者であり、傍観者だ。だから世界は混沌としていて、怖い。自分だけは正しいと、そしてその正しさは崩れないと、大丈夫だと、私たちは思いたいのに。

監督のレオは、アイヒマンの人間的な表情を捉えることで、彼なりの納得を見出そうとする。私たちは、ハンナ・アーレントの見解やミルグラム実験に納得を見出そうとする。

納得は救いだ。劇中で強く言い放たれる"learn"という言葉。人間は過去の過ちに学ぶことができる。もうへまはしない。だから希望はある。そう信じることにしか、救いはない。

レオつながりというわけではないが、レオ・レオニの『スイミー』という童話の一節を、私は思い出す。

 

スイミーは言った。 

「出てこいよ。みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ。」 

小さな赤い魚たちは、答えた。 

「だめだよ。大きな魚に食べられてしまうよ。」 

「だけど、いつまでもそこにじっといるわけにはいかないよ。なんとか考えなくちゃ。」 

スイミーは考えた。いろいろ考えた。うんと考えた。 

それから、とつぜん、スイミーはさけんだ。 

「そうだ。みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして。」

スイミーは教えた。けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もち場をまもること。 (レオ・レオニ『スイミー~ちいさなかしこいさかなのはなし』谷川俊太郎訳)

 

結局のところ私たちも、生まれ落ちた、または流れ着いた環境で、そこで得た知識と体を使って、自分の持ち場を見つけて守っていくしかない。プロデューサーとして、監督として、カメラマンとして。

妻として、息子として、娘として。ホテルの女主人として、絨毯売りとして、コーヒー屋として。

時に加害者として、時に被害者として。

そして、考える。いろいろ考える。うんと考える。過去の人達が行ってきた選択を思いながら、私たちも人間としての選択をする。

それでもいつか、大きなものに飲み込まれてしまうかもしれない。

浮き輪のようにアーレントの本を抱えていても、彼女のように強くはいられないかもしれない。でも、考えたことに、学んだことに、少しは救われる。ギリギリのところで、きっと。

 

私には、この映画の登場人物すべてが、大きな魚が通りすぎた世界をふらふらと泳ぎだした、小さな魚たちに見える。

あえて、大きな魚の姿は描かれない。だから、水槽の外の小さな魚である私たちは、自分たちのいる水槽に、静かに思いを馳せる。そういう映画だと思う。

 

 

 

 

 

2016年

4月

03日

これでいいのか?

大ヒットした深夜アニメ、『おそ松さん』最終話の評価が分かれている。

(『おそ松さん』という作品自体については放映中にも記事を書いたので、よろしければご参照ください→過去記事:『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松さん』は『空飛ぶモンティ・パイソン』のように、短い話をつなげた構成で、個々のエピソードは基本的にリセットされる。キャラクターが骨だけになってしまったり、結婚したりしても、次のエピソードではちゃんと通常の状態に戻っている。

ただ、キャラクターの「意識」は過去のエピソードの記憶を保っているので、死んだり結婚したりしたことも全く別次元の話ではないらしい(この漠然としたつながりも、パイソンっぽい)。

その不確かな連続性の中で、キャラクターのちょっとした成長や関係性の変遷が、繊細に描かれている。特に、四男の次男に対する複雑な感情の描写はさりげなくも丁寧だ。表向きはあくまでギャグアニメの枠を出ないが、ひそかな連続性のおかげで、二人の関係の変化がわかる。「裏(描かれなかった時間の中)で何が起こっているか」に思いを馳せずにはいられない。私も「萌えた」。

 

しかしこの連続性は腐女子のためだけのものではない。六つ子のニート生活がお気楽に描かれる中で、それぞれが「これでいいのか?」という意識を持っていることが、うっすらわかるようになっているのだ。

最終回の1話前にあたる第24話は、その「これでいいのかパート」を総括するような内容だった。

ただ一人、就職活動を続けながら自らの意識と向き合っていた(その行動がギャグとして茶化されていた)三男の就職が決まり、それを契機に弟5人の自立への決意と、心を閉ざしてみせる長男の様子が切なく描かれる。そのまま最終回までの一週間、「私たち」(あえて『腐女子』と括らない。六つ子を見守ってきた人々には色々な人がいる)は、踊りに踊らされた。

もう、六つ子が何をやっても可愛いというか、とにかく泣かせたくないというか、むしろ私が養いたいというか、そういう精神状態に持って行かれているのだ。そりゃ騒ぐ。

そしてついに訪れた最終回は、前回のシリアス展開を開始後1分でひっくり返す、ハチャメチャなストーリーだった。なんだかよくわからない始まりで、やけのようにギャグを連発しまくり、なんだかよくわからない結末を迎えた。

そういう展開の中でも、かつて退場したキャラをちらりと出したり、1期と2期をリミックスしたエンディング曲でお別れするなどのサービスでずっと観てきたファンの「労に報いた」点は見事だったと思うが、ストーリーそのものへの評価は分かれる。

ストーリーテラーとしての製作者は、「これでいいのかパート」の回収を放棄している。広げた風呂敷をたためなかった、と受け取る人は納得行かないはずだ。

擁護する人ももちろんいる。「少なくとも六つ子が別離を迎えずに済んだ」ので喜んでいる人は多いと思うし、もともと『おそ松さん』はナンセンスなギャグアニメとしての骨組みを持っている。2クール目の初めで「自己責任アニメ」と言い出したあたりで、「終わり方」は意識されていたのだろう。

いいか悪いかの議論なら、「これでいいのだ」という赤塚イズムを持ちだされた時点で、「これでいいのか」派は屈服するしかないのだ。

 

だから、私はあえて「これでいいのか」派として物を言わせてもらいたい(本音では、六つ子ちゃん可愛いでちゅね~、もう何でもいいんでちゅよ~、と思考停止していることも否定しないが)。

「これでいいのだ」は『天才バカボン』のバカボンのパパの決め台詞だが、そもそもどんな文脈で使われるのが正しいのだろうか。

 

原作『おそ松くん』を描く上で、赤塚不二夫はさまざまな表現に挑戦してきた。

赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ!」でいくつかのエピソードが紹介されているが、ナンセンスギャグが苦手な私でも「面白そう」と思ってしまう。名画や小説を下敷きにしたストーリー、緊張感溢れるコマ運び、感動を呼び起こすために計算された構図。

笑いというのは、一旦徹底的に構築された世界を崩すことでしか極められないものなのだろう。

公式サイトを閲覧するだけで赤塚不二夫の世界が理解できるとは思わない。もっと、漫画そのものに触れる必要があるだろうし、漫画家本人の人生を知るための資料にもあたらねばなるまいが、現時点での私の理解では、赤塚世界とは、「これでいいのか?(社会に直接訴えかけるシリアスな問題提起や、繊細な感情表現」と「これでいいのだ(現実の不条理を知った上で、すべて受け容れる、はちゃめちゃで大らかな世界」が何層にも積み重なった、ミルフィーユのようなものだ。

『おそ松さん』スタッフは、そのミルフィーユを丁寧においしく積み上げることで、赤塚世界に敬意を払ってきた。でも、24話から最終話の流れでは、「これでいいのだ」を、「これでいいのか」からの帰結ではなく、自らのストーリーテリング能力不足を隠すための免罪符として使っているように見える。綺麗に仕上げるべき「一番上の層」でそれをやってしまったことが、「これでいいのか」派が一番ひっかかっている点ではないだろうか。

私たちは『おそ松さん』スタッフを優秀な菓子職人として信頼してきた。

でも、表面にどんな飾りつけをして終えても、見た目の好みは分かれるだろう。だからこそ、味で勝負して欲しいのだ。

 

しかし、この「事変」はいかに彼らが私たちの心を揺さぶることができるかという証明になった(ひょっとしたら計算づくだったのかもしれない。そう疑ってしまうほど、『おそ松さん』スタッフには余力をうかがわせる何かがある)。きっと、2期からは安心して、よりファンを信頼した上で、さらにおいしいお菓子を作ってくれるだろう。貪欲に、期待していたい。

2016年

4月

02日

優しい嘘

『Mr.ホームズ』は家の近くで上映していなかったため、朝から電車に乗って新宿に出向いた。

うらうらと、暖かい春の日だった。アパートを出たら、外で遊んでいた子どもたちが、手折ったたんぽぽをくれた。畑で働いていた人が、両手いっぱいに抱えるほどの菜の花を分けてくれた。急ぐ必要はなかったので、一旦家に戻り、コートを着たままたんぽぽをコップにさして、菜の花をゆでた。

ひどく、のんびりした気分になっていた。頭のどこかにいつもあるはずの苛立ちや焦りは、とろんとした眠気に包まれて、ずいぶんと遠く感じた。いつか年をとって、仕事や色々なことを辞めたらこんな感じかもしれないなと、ふと思う。

春眠暁を覚えず、という言葉をいつか習ったけれど、子供の頃は春に眠いと思ったことがなかった。田舎で育ったせいか、体はいつも周りの自然と連動していて、春になればうずうずと何かをしたくなり、夏には一層その気持ちがつのり、秋になるとすこし落ち着いて、冬はすぐに眠くなった。

動植物が息づくのに抗うように動きが鈍くなるのは、たぶん私の体が、生のピークに向かうのでなく、死に向かう下降線を辿り始めたからなのだ。

 

映画は、そんな春の日とつながっているかのようだった。

「ホームズ映画」といえば、薄暗い霧のベーカー街、キビキビと走り回る名探偵だが、『Mr.ホームズ』は、陽光と美しい花々に彩られている。私達の知るホームズには、そんなものは似合わなかったはずだ。それが、うっすらと悲しい。

みっちょんさんこと関矢悦子さんは、この映画を「ホームズ、ウメザキ、アンの三人が持っている『悲しみと喪失感と孤独』に対して、三者三様の安らぎ(救済)を得られるストーリー」と評された。

私達の知るホームズは、いつも人を救う側の人だった。その行為によって、彼は彼自身をも救っていた(仕事でも家事でも子育てでも、人の営みにはそういう側面があると私は信じる)。

でも、93歳の彼は体も頭も鈍っていて、もう、探偵として人を救うことはできない。名探偵という肩書はすでに虚しく、彼はただの「ホームズ」だ。そうなってしまった人間は、もう救われないのだろうか。人生の終わりに待っているものとは、悲しみと喪失感と孤独だけなのだろうか?

 

知性という武器を失ったホームズは、「新しいやり方」でウメザキを救おうとする。

そのやり方を使っていたのは、今はもういない相棒のワトスンだ。

ワトスンの書く物語はいつだって曖昧だ。真実という分子は、とろんとした嘘にくるまれて、時にかたちが見えなくなる。ホームズは、ワトスンのそんな姿勢を批判してきた。

ホームズだって上手に「嘘」を使うし、茶目っ気や気遣いがないわけではない。おそらく、自分が導き出した真実よりも、読者の興味や誰かを慮るための嘘を重んじる親友に、ちょっと拗ねてみせる気持ちもあったのだろう。『白面の兵士』という隠遁後のホームズ自ら筆を執った作品では、ホームズはそんな自分を少し反省しているようだ。

 

「じゃ自分で書いてみたまえ、ホームズ君」こう反撃されてペンはとったものの、書くとなるとやはりできるだけ読者に興味を与えるようにしなければならないということに、いまさら気のついたことを告白せざるを得ないのである。(『白面の兵士』延原謙訳)

 

実際の出来事を書く場合でも、読者を楽しませる形で表現する必要がある、と学ばされたのだ。それが避けられない条件だと気づくと、私はたった2作発表しただけでジョン風の物語を書くのはきらめ、あの親切な医者に短い手紙を送り、これまで彼が書いたものを揶揄したことに対して真摯な謝罪の念を表した。(『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』ミッチ・カリン作 駒月雅子訳)

 

かつて、アンの手袋をそっと隠したワトスンの「優しい嘘」。

それは、彼の気遣いが消沈した親友を相手に発揮されたものとみていいと思う。ワトスンの優しさとアンの孤独は、手袋の形をして、いつもホームズのそばにある。

逝ってしまった人は、不意に語りかけてくる。音楽や、遺品や、その人を知る誰かからの手紙の中に、その人はいる。

正確には、生きている私たちが、その人を思い描いているだけなのだ。でもいつか、本当に本当に救いが必要な時が来たら、正確であることがどれほどの意味を持つだろうか?アンのように、ウメザキのように、物語にすがるのは、いけないことだろうか?ホームズの追い求めていた真実と、アンが見つめていた彼女にとっての真実は、どこかでつながってはいないだろうか?

すべての真理をつかむには、私たちはあまりにも小さい。だから、頭と体の動く限り、追い求めるしかない。それぞれに与えられた環境で、それぞれにできるやり方で。

 

しかし、人は何かを深く追えば追うだけ、背後に置き去って遠く離れてしまったように思えるものを、強く求めるのかもしれない。ホームズにとって、それは「真実」と「嘘」だったのだろうか。ドイルにとってのそれは、何だったのだろうか。いま私が置き去りにしようとしているものは、何だろう。

原作と映画の結末は違う。その変更も、ホームズや私達の思いをとろりと包み込む、優しい嘘に思える。

焦りや怒り、失望や悲しみはこの世だけのもので、逝ってしまった人達は、とろりとした膜の向こうで微笑んでいる。そう信じて祈ることこそが、きっと、最大の「優しい嘘」だ。

 

2016年

1月

03日

年末年始だけ、ごはん日記

12月28日 (一人パーリィで痛い目に合う)

 

仕事納め。

誰かと「良いお年を」と言い合って別れるのは嬉しい。仲良しの人も、そうでもない人も、しみじみ大切な人に思える。ふわふわと温かい気持ちは帰り道も続いていて、今まで作ったことないレシピに挑戦するべく、スーパーに立ち寄った。

練りウニをいただいたのだがほとんどお酒が飲めないので、ウニクリームパスタを作ってみることにした。以前無印良品でレトルトのを試しておいしかったのだが、そこそこ高い上にコレステロール値が気になるのでずっと食べてない。今日は解禁だ。

贅沢して生クリームを買って、フライパンの上で練りウニとまぜ、ゆでたパスタを和えてみた。

材料の値段に比例してすごくおいしくなるはず、と期待したがそうでもなかった。少なくとも、レトルトより乳脂肪分が高そうな味はした(実際高い)。おいしくないのにカロリーはしっかり高いものを作ってしまった自分に腹が立ったが、勢いで完食した。

贅沢ついでにカットパインも買ったのだが、こちらはすこぶる美味だった。根拠はないがウニパスタの無念とカロリーを中和してくれるような気がして、食べ過ぎた。

そうしたら夜中にお腹が痛くなって、それに相まってパイナップルの酸でのどや胃の粘膜がひりひりしてものすごくつらかった。消化器官の内側が、口からお尻まで一直線に全部つらい感じだった。ついでにトイレが寒くて、外側も地味につらい。

痛いのはお腹だけでそれ以外はまあ我慢できるのだが、私が何をしたんだ、と恨みたい気持ちでいっぱいだった。何をしたかも実はわかっているので余計にやるせない。脳までつらい。

 

12月29日 (ほぼ断食)

 

パイナップルの後遺症か、まだちょっと胃が痛い(本当は消化器官全体が痛いと言いたいのだが、それは気のせいだと看護師の友人にきっぱり言われた)。パイナップル恐るべし。

明日、お寿司の約束があるのでできれば復活したい。様子をみながら、白湯とか、小さいカップのヨーグルトとか「摂取する」。

大掃除を今日やるつもりだったので、これは痛いロスだ。夜になってようやく、クローゼットの整理とかしてみる。

 

12月30日(大掃除が始まらない)

 

復活した。しょっちゅう具合の悪いようなことを書いているのでご心配いただくこともあるが、胃腸は強いのだ。

近所にあるタッチパネルで注文するタイプの回転寿司に、初めて行ってみる。友人の9歳になるお嬢さんが、慣れた様子で「海老天」を注文して度肝を抜かれた。海老天が乗っかったお寿司が出てきた。タッチパネルの操作を完全に彼女に任せて、大人は口頭で好き放題注文する(9歳児に)。

 

 帰りにスーパーの特設コーナーでわらびもちを買って、大掃除中丸出しのわが部屋でお茶を飲んだ。フードコートみたいなところで『スピン』という米菓子みたいなのも買った。同世代の友人たちは懐かしい、と言っていたが、私にはあまり記憶がない。ざっくりした歯触りでおいしい。

それから皆でゲームをした。動物の生態を当てるゲームなのだが、9歳の子どもに対していい大人のNくんとSさんは一切勝ちを譲らなかった。私は友人二人のこういうところが好きなのだが、9歳の彼女は大泣きし過ぎて吐いた。なかなか病人モードから抜け出せないわが部屋、としみじみ思いながら、夜カーペットを洗う。

 

12月31日(脂との闘い)

 

スーパーに大書きされていた「おせちもいいけどカレーもね」というフレーズが頭を離れなくなってしまい、おせちの準備を放っておいてカレー食えって意味じゃないよな、と了解はしているものの、昼はカレーを作った。と言っても買ってきた材料はおせち用なので、トマト缶と鯖の水煮缶で作るサバカレー。

昨日Sさんが生クリームの残りを泡立ててくれていたので(クリスマスにいただいたパネトーネというお菓子につけて食べた)、思いついてマッシュポテトに混ぜてみたらものすごくおいしかった。ジョエル・ロブションはおいしいマッシュポテトを作るコツを「バターをたっぷり入れること。50パーセントまではバターを入れてよい」と語ったそうだが、生クリームもいい。口当たりがふんわりする。

しかし、これは人をダメにする食べ物だ。5万円のディナーでぽちっと出てくるならともかく、こんなん家で日常的に作って食べたらダメになる。具体的には、映画「セブン」で暴食の罪で殺された人みたいになる。誰か私に記憶を抹消する光線を当てて欲しい。

 

夕ご飯は実家に行って年越しそばをいただく。アパートに帰ってから実家のおせちの担当分(私が独立して台所が二つになったため、分担している)を作る作る作る。

 

・柚子なます

・筑前煮

・オレンジチキン(SHERLOCKのジョンのブログに『パンダ・エクスプレス』に似た名前の中華料理屋さんが出てきて、懐かしくなっておせちに入れてみたところ、好評だったので毎年作っている。オレンジジュース入りの甘酢だれで和えた鶏の唐揚げ。私は青ネギもたっぷり添える)

・豚肉の野菜巻き(八幡巻の豚肉版みたいなやつ。照り焼きにする)

 

……こうして見ると、台所が汚れそうなやつばっかりじゃないか。母に謀られたか。(掃除したばかりの換気扇!)揚げ物する鍋がなくてフライパンでやったので、すごく油が跳ねる。そこら中水拭きし過ぎて手がガッサガサだ。

 一応紅白歌合戦を流しっぱなしにしていたが、エアコンの風が一番よく当たるところにカーペットを干していたら、音すらほとんど聞こえなかった。

 

お祝い用の箸を買い忘れていたので、折り紙で箸袋を折りながらの年越しになった。

どの番組を見ながら年越しするか考えあぐね、結局NHKを観ていたら、予約録画のために画面が切り替わって「キャプテンアメリカ・シビルウォー」の物々しいトレイラーを観ながら年が変わった。まあいいか。

 

1月1日(働き者の友人と甥)

 

雑煮の準備をしようと、「小松菜をさっとゆでて絞る」(←レシピ棒読み)。

コンビニ頼みで平日はほとんど料理しない私だが、料理中の食材とはきれいなものだなあ、と思う。

私は本の装丁を見るのが好きで、美術品よりもずっと興味があるのだが、それはきっと背景に「読む」という楽しみが隠れているからだ(たぶん、音楽とか美術とか、感覚へ直に切り込んでくる芸術と正面から取っ組み合うのが私は苦手なのだ)。

食べ物を美しいと思う気持ちにも、「食べる」ことへの期待が含まれている。

その美しさが、どんどん姿を変えていく。この手でそれを引き受け、見る、触る、音を聞く、匂いを嗅ぐことで「おいしそう」という気持ちが高まる。

正月の朝の、おせちがあるから暖房できない台所のきりっとした寒さもいい。食べるだけの人は、この楽しみの一番終わりのとこしか味わえてないのだな。だからといって今年からもっと料理します、と断言はできないが。

 

大家さんの餅つきにお呼ばれ。新年早々よその家族にお邪魔するのも申し訳ないのだが、通りすがりの人にも餅をつかせたり、飲み物を出したりする太っ腹な御一家なので甘えさせていただいている。こういうお正月を知らずに育ったので、毎年いちいち感動する。昔話の庄屋さんみたいだ。

幼馴染のSさんとYちゃんが合流。

飛び入りの友人たちはたいそう有能で、餅とり粉をまぶしまくり、大福を包みまくり、余った餅をのしまくり、「彗星のように現れた期待の新人」と絶賛されていた。

つきたてのお餅をからみ餅、大福、お雑煮と抜かりなくいただいた。

アパートに戻って料理をつまみながらダラダラしたが、ここでもSさんとYちゃんのスキルが遺憾なく発揮され、かまぼこをウサギの形に切ったり、いくらやアボカドを飾ったりして、いつSNSに投稿しても恥ずかしくないような写真を撮ってくれた。

幼馴染たちがデキる女なのはわかってるんだが、この「いいタイミングでさりげなくいい感じの写真を撮る」技術は、どうやって身に着けたのだろう。いつの間にか、女友達という女友達が同じテクを習得している(私の友人に限った話かもしれないが、男友達はそうでもない。出されればただ食う)。皆が一斉に携帯を出すと、私も目の前にある光景が惜しい気持ちになって同じ構えをとるが、完全に後手後手だ。

 

夕方からは実家に行って、両親と弟夫婦、やたらとペラペラしゃべるようになった甥っ子に会った。甥っ子は英語でしゃべると大人にウケがいい、ということを自覚していて、"Coffee please"と頼むとコーヒーメーカーのところまで走っていき、"Here you are"と(コーヒーに見立てた何かを)渡してくれる。その後はこちらが飲む振りをして"Yummy"と言うまでわくわくと見守っている。

何度も繰り返して飽きたので逆にこっちから"Here you are"と渡したら、しばらく考えた後で一口だけ飲むふりをして「にがい」と言った。

 

ホットカーペットの上で毛布をかぶってうとうとしながら、「エージェンツ・オブ・シールド」の一挙放映を観る。

 

1月2日(急にエンジンがかかる)

 

もちなしのお雑煮をおつゆがわりにして、朝食。

小松菜やかまぼこの残りも入れたらすごく具沢山になった。

おせちの残りをご飯で食べるのが好きなので、幸せだ。

昆布巻きとか煮しめとか、ちょっと余ってしまう系のおせち料理が好物なので、太るの覚悟でたくさん食べた。

一人用の冷蔵庫は余った料理と材料ですぐにいっぱいになる。

隙間作り最優先で「材料検索」し、「鶏肉と大根のさっぱり煮」を作る。

 

友達のブログに表示されていた広告に触発されて、防災袋を作ってみた。

と言っても、リュックとかラジオつき懐中電灯とか、ちゃんとした防災グッズはまだ買っていない。

アルミのシートとか、軍手とか、除菌ティッシュとか、ホテルでもらったスリッパとか、いただきもののキャンドルとか、なんとなく靴箱に突っ込んでいたものをやはり持て余してたイケアのブルーバッグに集結させただけだが、バッグのタグのところに連絡先や血液型を書いたら、急に緊張感が出た。

いつか、これを作っておいてよかったと思う日がくるのかもしれない。

肝心なものがなくてイライラするかもしれないし、全然足りないかもしれない。誰かがこれを見つけた時、私はもういないかもしれない。

その時そういう心境でいられるかどうかはわからないが、小さく「見つけたら使ってください」とも書いてみた。

 

夕方、きんとんとコーヒー、黒豆を入れたヨーグルトを用意して

「グレーテルのかまど」スペシャルを観る。

あと「富士ファミリー」というスペシャルドラマが良かった。

木皿泉作品、友達に絶賛されていたがちょっと説教くさくて私は苦手、と思い込んでいた。今回は何かがかちっとかみ合ったみたいに、説教くさいところも含めていいなと思った。

 

普段は家事を始めるエンジンがなかなかかからないのに、一度かかると今度は冷めない。夜中に突然思い立ち、便箋や封筒、カードに切手やシールなどを適当に詰め込んでた小引出しをひっくり返して整理した。

ついつい、紙物を買ってしまう。服と違ってすぐにはヘタらず、それほど流行がないのもあって、昔買ったものの可愛さに今でも悶絶する。

鳩居堂の絵葉書とか、ドイツのパン袋とか。結局、ここだけは思い切った整理はできない。私が突然死んだら友達皆で分けてください。箱にまとめておきました。

 

年賀状の返事を書きながらエージェンツ・オブ・シールド。

各話のエンドクレジットのあとに3秒くらい出てくる、落書きみたいなエイリアンがふらふらと歩いていくアニメが怖い。

今はネットで「それは何なのか」を簡単に確かめられるけど、昔はテレビを観るときこういう怖さをもっと何度も感じた気がする。

 

1月3日(コンビニ生活への復帰に向けて)

 

朝昼ごはんは八つ頭の煮物、おつゆの残り(かさが減っててちょっと焦がしそうになった)、雑穀ごはん、いくらの残り(賞味期限やばい)、アボカドの残り。

自堕落な生活も今日までかな~と惜しみつつ、洗濯をして年賀状の返事を出しに行く。ローソンの蟹クリームコロッケを一度食べてみたかったので寄ってみるが、なかったのでじゃがいものコロッケを買う。

夜ごはんはコロッケと千切りキャベツ。柚子なますの残りの材料(千切り頑張り過ぎた)で、キャロットラぺと大根の味噌汁。あと、豆乳が豆腐になりかけた小鍋みたいなレトルト食品に、青ネギの残りを振って食べた。

この商品を開封する時、私はいつも豆乳を爆発させてしまうのだが、久しぶりに買ったら蓋に「爆発しない開け方」が書いてあって、ちょっと嬉しかった。粗忽者は私だけじゃなかった。要約すれば「ゆっくり開けろ」なのだが。

小松菜とかまぼこの残りはバターで炒めてみた。これと煮物の残りで明日はお弁当。

嵐の二宮君が主人公の「坊ちゃん」(赤シャツが及川ミッチー!)を録画した。週末はこれを観ながら、クリスマスにSHERLOCKのカレンダーを送ってくれた友人に送る、柚子ジャムと柚子カードを作ろうと思う。

 暮れからずっと台所の隅で小山になってた柚子があっという間に小さな瓶におさまって、大掃除感があるはずだ(もはや『感』で妥協してる)。 

そういうのも料理する人の快感だよな~と、早くもコンビニ生活に一歩足を踏み入れながら思う。

                                  

2015年

12月

19日

銀杏を洗う

記事のひとつをツイッターで拡散していただいた際(それ自体はとてもありがたいことだ)、私の文章の拙さが原因で、読んでくださった方に嫌な思いをさせてしまった。

私自身はツイッターのアカウントを持っていないが、激しく怒っている方のツイートを友人が見かけたそうで、「対処したほうがいいと思うよ」とスクリーンショットを撮って送ってくれた。

 

傷ついた。しかし、身から出た錆だ。

当該記事にも追記をしたが、発端は私が「ワトスンは何もできないキャラクターの代表のように言われている」と書いたことだ。その部分に対し「ワトスンが何もできないだと?この人は何を言っているんだ」という反応があったらしい。ツイッターには発言を一般公開しない機能もあるため、何人の方が同じように思われたかはわからない。

『SHERLOCK』におけるジョンのような重要な役割も含め、『ホームズ』二次創作におけるワトスンの描かれ方には、それぞれの作品においてそれなりの意味がある。だから道化や役立たずとしてのワトスン像を頭から否定するつもりはないが、個人的には、原作のワトスンを揶揄する人には心の中で反発してきた。しかし、いつの間にかそうした評価をひとつの現実として受け容れてしまったようで、別の映画について語る時に一般論としてさらっと出してしまった。

「ワトスンぼんくらイメージ」が存在していたことは、お怒りになった方々も認識していらっしゃったようなので、矛先が私だということはこの際たいして重要ではないのかもしれないが、いずれにしても、先に石を投げたのは私だ。

石ならまだいいのかもしれない。小石であれば、痛いのは短時間で済む。

言葉の暴力で投げられるのは、銀杏の実のようなものだと思う。投げつけられるといつまでも臭い。忘れたくても、不愉快がまとわりつく。

 

以前勤めていた職場には、大きなイチョウの木が何本もあった。

路上にたくさんの実を落としていたので、そこを通学路とする子どもたちに「ぎんなん地獄」と呼ばれて嫌われていた。

上司の一人は少しでも空き時間ができると黙々と銀杏の実を拾っていた。子どもたちには「ぎんなんおじさん」で通っていたらしい。私たち部下も手伝ったが、とにかく量が多いので、毎年かなりの量を彼一人で拾ったはずだ。実は際限なく落ちてくるから、いくつもいくつも、何度でも。

大量の実を水に浸け、掻き回して(お風呂のお湯を掻き回す棒が最適だそうだ)種を取り出し、大きなかごに並べて乾かしてくれるのもその人だった。

いくつもの工程を経て手渡された銀杏の種を使い古しの封筒に入れ、電子レンジにかけると、硬い殻が割れて、透明感のある翡翠色の粒が現れる。その大きさに比して信じられないほど、滋養に満ちた味がした。

 

ツイッターでの生き生きとした言葉のやりとりは、見ていて本当に楽しい。

きっと、タイムリーに怒ってくれた人がいたおかげで、私の言葉に傷ついていた人は救われたと思う。そうだとしたら、その人のおかげで、私もまた救われている。そうした効能はツイッターならではのものだ。

でも、私はまだまだこのツールは使いこなせないと思う。言葉に余計なものをまとわせてしまったり、思ったことをうまく伝えられなかったりするから。

もともとの人間性がダメなのか、言葉の使い方がなってないのか、両方なのか。よくわからないが、とにかく私は、銀杏を洗うような作業を経ないと言葉を発せないのだと思う。

いい人ぶるつもりはない。悪口だって言うし、自分勝手なことも、いいかげんなことも言う。

洗ったところで自分の臭いはとれないし、手をかけても不味い実が出てくる。

しかし、洗わねばなるまい。桜のようにそこにいるだけで皆を楽しませる木もあるが、桜には桜の苦労があるはずだ。臭い実を投げつけて人に悲鳴を上げさせてしまう木に生まれついたら、それなりに努力しなくてはいけないのだろう。

元職場のイチョウは、既に切られてしまった。「ぎんなんおじさん」は、来春定年退職する。

 

徹底的に磨かれた、という感じがする言葉に触れるのが好きだ。

最近『CITY HUNTER』の続編がドラマ化されていて思い出したのだが、アニメ『CITY HUNTER2』の主題歌の一節をよく口ずさんでいた。

 

最初に好きになったのは声

それから背中と整えられた指先

ときどき黙りがちになるクセ

どこかへ行ってしまう心とメロディ

(PSY・S 『ANGEL NIGHT~天使のいる場所』)

 

身近にいる人に恋をする、その過程が四行に凝縮されている。

きっかけは、声という、意識しなくても耳に入ってしまうもの。

つい相手に見入ってしまい、今までは目に入らなかった細かな発見にドキドキする時期を経て、相手の内面を想像するようになり、自分とのつながりを切なく望むようになる。

そういう分析が出てくるのは大人になった今この歌を思い出したからで、子どもの頃は理由もわからずただ惹かれた。助詞の「と」に「整えられた」が続く「と・と・と」という音の並びが心地よかったのを覚えている。

いい言葉は、どんな受け取り方をする人も惹きつける。

いつかこういう言葉が書けたらなあ、と思う。

2015年

11月

22日

『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松くん』の六つ子が大人になった、という設定の深夜アニメ『おそ松さん』がネットでウケていて、ローカル局の千葉テレビは「この波に乗っかって」『おそ松くん』の再放送を開始したそうだ。

 

この件において、群馬県民は完全に勝ち組である。群馬テレビでは『おそ松さん』が始まる数か月前から『おそ松くん』の再放送をやっていた。

群馬県民は、満を持して新旧作品を比較できたわけである(やっている県民がいたかどうかは知らないが)。

 

私は1988年版の放送をリアルタイムで観ていて、主題歌(仕事とローンに追われるサラリーマンの悲哀を歌ったものだった)を大声で歌っては周囲の大人を苦笑させていた世代だ。

このバージョンもアニメ化としては2作目らしい。当時も、大人に「昔のアニメのほうが毒があった」とか「いや原作の方が」と言われていたが、原作と1作目を知らない私にとっては、十分無茶苦茶だ。

第10話では、六つ子の長男おそ松が高熱を出し、イヤミが彼を死神に売り渡す。最終的にはそこまでの流れとはほぼ関係なく全員死んでしまい、「それでは皆さまさようなら」とミュージカル調に終わる。往年のギャグへのオマージュだとしてもすごい。ボケ、投げっぱなしだ。

 

それに比べると2015年の『おそ松さん』は、不条理は不条理だが、何というかフォローが効いている。

まず、ほぼクローンだった六つ子にわかりやすい個性がついた。性格は六者六様だし、外見も描き分けられている。

そのことによって、六つ子の間に関係性が生まれる。ちゃんと「ツッコミ」がいるので、一つ一つのギャグがきっちり「回収」される。日頃鬱屈している者が愛情を垣間見せるという「ちょっといい話」もある。

『おそ松くん』に限らず昔の漫画には、現実とその世界をつなぐ説明がなかった。例えば、どうして毎日同じ服を着ているのか。安月給のお父さんと専業主婦のお母さんで、どうやって六つ子を育てているのか。

服装に関しては、時代性もあるのでうまい例えではなかったかもしれない(おそ松くんたちはいつも学生服のような服装だったが、現実もそんな感じだったのかもしれない)が、驚いたことにおそ松さんたちは着替えている。ジャケット、パーカ、つなぎなどバリエーションがあるし、丈や着こなし方にも個性が出ている。

一家の経済状況にも言及がある。母に「ニートたち」と呼ばれる兄弟(この『ニートたち~』が何ともいえずあっけらかんとしていて、今はニートって普通のことなんだなあ、と実感する)は「このままではまずい」と思って就職しようとしたりするが、イヤミに「子供のころチヤホヤされた連中はこれだから」というような陰口を叩かれていて、(マンガやアニメ『おそ松くん』の)子役としての収入が一家を支えていたことが、六つ子が自立せず両親もそれを責めないことと関係があるのかもしれないなあ、などと邪推させられてしまう。

 

こうした「現実的な見方」があった方がいいとかない方がいいとか言いたいのではなく、現代のギャグ漫画にはメタ要素というか、視聴者や読者の視線がより多く混ざるんだな、と思う。ストーリーの中で登場人物が自分の立場で語るのではなく、観ている子供たちが翌日の教室で話すようなこと。「いつも同じ服だよな」とか、「見分けがつかないなら変えたらいいのに」とか。

『おそ松さん』におけるツッコミもかなり視聴者目線だ。登場人物の一人として自らの立場からツッコむのと同時に、視聴者の気持ちを代弁するという機能をはっきり打ち出している。「いや、おかしいだろこの状況!」とか、視聴者ではなく登場人物が言う。同じことを、視聴者は翌日の教室ではなくリアルタイムでSNSなどで言っている。

 

では、どうして今、視聴者目線が取り入れられるのか。

それは視聴者もまた優秀な創作者であることが、二次創作の台頭でわかっているからかもしれない。ネットには『おそ松さん』の二次創作が溢れている。製作者がそれを見越しているのは、第一話を見れば自明だ。

視聴者を置き去りにした「それでは皆さんさようなら」から視聴者寄りにシフトすることで、『おそ松さん』は成功し、放送期間も延長されたわけだが、第二作と第三作の間にはビデオゲームの台頭があった。二次創作ブームの背景にはネットの普及もあるが、その更に前の私の世代には、ゲームの影響がある気がしてならない(ゲームはしないが二次創作はする、という人ももちろんいたが、時代の空気はたっぷり吸っていたはずだ)。

当事者なのでよく覚えているのだが、子どもたちに爆発的なファミコンブームが起こったのは『おそ松くん』88年版放送の数年前で、だから88年版おそ松くんを作ったのはファミコンを知らずに育った大人だ。

ゲームは想像力を奪うとか暴力性を引き出すとか、大人には散々言われたものだが、それは半分当たっていて半分はずれている。

初めてゲームを手にした時感じたのは、自らの手で物語を切りひらいていく手触りだ。主人公の運命は私の手中にある。結末を自分で決められないテレビや本とは違い、主体的に関われる娯楽。実生活において自分で選択できることが少ない子どもにとって、それは何ともいえない快感だ。その証拠に、読者の選択で物語が分岐する「ゲームブック」も当時流行った。

一方で、世界やキャラクターは既成のもので、一から物語を作らなくていいという手軽さもある。登場人物をひどい目に合わせても、自分は傷つかない。「腹を痛めて産んだ子」ではなく、借り物の体だからだ。飽きたら、また次の対象に移ればいい。

そういう意味で、他人の作ったキャラクターを借りて物語を作ることは、ゲームをプレイすることに似ている。私はゲームの愉しみも二次創作の愉しみも否定しないが、ゼロから何かを作り出すのとは、やはり違う。どちらがより偉いというのではないが、種類の違う行いだと思う。

 

『おそ松くん』の六つ子は顔かたちはすべて同じで、それに「ツンデレ」とか「無邪気」とかさまざまな色を付けていくのが『おそ松さん』だ。

それは、二次創作が外から見るよりもずっと豊かな創造性に溢れていることと同時に、一歩引いて見れば没個性的にも見える、ということも暗示している。どこに視点を置くか、何を愉しんで生きるかは、人それぞれだ。

 

2015年

11月

16日

『キングスマン~』の中の『最後の事件』

「塚口サンサン劇場」プロデュースによる「キングスマン・レディース&ジェントルマン上映」の東京版(角川シネマ新宿)に連れて行っていただいた。

参加した方々がさまざまな形でレポートしてくださっているが、ここにも「L&G上映」の概要をざっと書いておく。

 

・ドレスコードがある(ジャケット、眼鏡、傘。ただし強制ではない)

・大きな声を上げてもよい。

・クラッカーや紙吹雪が劇場側から配られる(持ち込みも可)


思い思いのお洒落をして、(劇中に出てくる)ギネスを楽しむ。上映までの待ち時間にはかっこいいDJがサントラを回してくれている。観賞グッズを自作してきた人も大勢いて、初対面の参加者とも会話が弾む。本や映画など、ひとりでひっそりやる娯楽を好んでいた私にとっては、上映前から既に異次元である。

主催者の挨拶と"Eat, drink,party!"(これも劇中のセリフ)の唱和で上映が始まる。

上映中は、観客が主役だ。お気に入りの場面でクラッカーを鳴らす。鋭いツッコミにどっと笑いが起きる。人気キャラクターが出てくれば嬌声がわく。

アメリカ人の友人に話したところ、「アメリカでは普通の映画館がそんな感じだよ」と言われたが、違うのは「観客全員が2度目以降の鑑賞」というところではないだろうか。

日本人は自制する。映画の登場人物に対して愛を叫ぶという「オタク的行為」は、「そうでない人もいる環境」では許されない。オタク自身が、それを許さない。

だから、自分たちを隔離する。「ファンだけが集まり、好きなだけ愛を叫んでいい環境」を作り出す。そこから、新たな文化が生まれてくる。

「文化」なんて言い方は大げさかもしれないが、今回私が一番感動したのは、塚口サンサン劇場で、既に独自の鑑賞文化が育まれていたことだ。

歌舞伎の大向うのような「ツッコミ師」がいて絶妙なツッコミを入れるのは、ニコ動のコメントや2ちゃんねる、Twitterでの「実況」を基にしたスキルだし、好きな場面でクラッカーを鳴らすのはFacebookの「いいね」や、ブログの「拍手」である。観客たちが共有するバックグラウンドが、ちゃんと生きている。

観客がごみ袋や軍手を持参して散らかった紙吹雪やクラッカーを掃除するのも、サンサン劇場の恒例行事だそうだ。

ちなみにチケット代は通常の映画料金と同じ1800円なのだが、劇場はクラッカーや紙吹雪を提供したり(紙吹雪も、劇中の写真をあしらった凝ったものだ)、照明や音響で盛り上げたり、クライマックスでは風船を飛ばしたりと、趣向を凝らしてくれている。観客の滞在時間や清掃の手間を考えると、時間的、金銭的には劇場が損しているはずなのだ。

開催する側に、作品が好きで楽しみを共有したいという思いがあり、参加する側もそれに応える。エンターテイメントにエンターテイメントで、ホスピタリティーにホスピタリティーで。これはとても幸福な図式だ。

チケット販売は「瞬殺だった」そうだ。この先、こういうイベントが増えていくのだろう。開催者、参加者、双方への批判も出てくるだろう。同人誌即売会がそうであったように初めは純粋な思いで支えられていても、商業主義に走る者が現れたり参加者のモラルが問われたりするのかもしれない。

そうだとしても、今この時、塚口サンサン劇場や角川シネマの取り組みに参加させてもらえたことを、私は誇りに思いたい。新たな文化の誕生に立ち会えたことを、若い世代に繰り返し自慢してウザがられる婆さんになりたいと思う。

連れて行ってくださったRさん、Lさん、ありがとうございました。スタッフの方々はもちろん、そこにいたすべての人たちに感謝したくなるようなイベントだった。何度も言うようだが本とか映画くらいしか娯楽を知らず、クラブとかライブとかほぼ無縁だったので、生まれて初めて「今夜は最高!」と大きな声で叫びたくなるような夜だったのだ。音楽やダンスより本や映画に痺れるタイプの人間だって、たまにはそんな夜に溺れたい。

 

さて、多分TwitterとかでL&G上映への賛辞は何度も呟かれていることと思う。

せっかく貴重な参加権をいただいたのだから、ちょっとは毛色の違った感想も書いておくべきかもしれない。そんなこんなで、ここからは一シャーロッキアン見習いとして映画「キングスマン・ザ・シークレット・サービス」の内容に触れたい。需要があるかどうかは置いといて。

 

7回目とか5回目とか、手練れの観客ばかりの中で「たった」2回目の鑑賞だった私だが、クラッカーを鳴らすタイミングは心に決めていて、その一つが、主人公エグジーが教官のマーリンを「マイクロフト」と呼ぶ場面だった。

何でもホームズ関連の語句に「空耳」「空目」する習性があるので、本当にマイクロフトと言ったか確信がなかったのだ。しかし、よく聞いてもちゃんと「マイクロフト」と呼んでいたので、私は心おきなくクラッカーの紐を引いた。

IMDbを確認したところ、やはり「マイクロフト」はホームズの兄を意識したセリフだったようだ。マーリンを演じるマーク・ストロングがガイ・リッチーの映画「シャーロック・ホームズ」に出演していたことに由来するらしい。

あっ、と思った。キングスマンのボスになりすましているエグジーは、演技の一環として、パイロット役のマーリンに「おめでとう、マイクロフト。パイロットから執事に昇格だ」と言う。

マイクロフトが御者に扮してワトスンを送り届けるのは『最後の事件』だ。ホームズとワトスンが行きつくのはスイスの山中。エグジーとマーリンが潜入するパーティーの会場があるのも、どっかわからんけど、なんか雪山だ。

 

こじつけもいいところだが、もし『最後の事件』とこの話がつながっているとすれば、共通点はもう一つある。

ハリーとエグジー、ホームズとワトスン。関係性は異なるが、信頼関係で結ばれた二人の、片割れがいなくなるというところだ。

ハリーとエグジーは非常に親密だ。ほとんど疑似父子として描かれる。

エグジーは、血の気の多い若者に見えるが、その実とても素直だ。保護者としては頼れなくても愛してくれる母親には愛情を、軽視してくる義父には軽蔑を返す。信頼を向けてくる友人は全力で庇う。いじめにはきっちりやり返すが、引きずらない。性的な視線を向けてくるプリンセスの誘いには乗るが、男ばかりの候補者の中で孤立するロキシーには、女性ではなく友として対する(だから私は、彼のボンド的なプレイボーイとしての振舞いにさえ、欲望よりも無垢さを感じてしまう。彼は、望まれる自分を望まれるように返しているのだ)。もちろん、ハリーの強い愛情や信頼には、全力で応えようとする。

天才的な活躍を見せるエグジーに「何もできない」キャラクターの代表のように言われる(※追記2)ワトスンを重ね合わせては叱られてしまうだろうが、利他的なところはワトスンに似ているのだ。

自堕落になっていたワトスンは、ホームズに出会って自らの興味のきらめきを感じる。相手の存在のおかげで気持ちが引き立ち、感性が研ぎ澄まされる、というのはホームズにとっても同じである。しかし、ワトスンは家庭と言う新たな居場所を見つけ、ホームズのもとを去る。

 

ハリーの人物像は謎に包まれているが、コードネーム「ガラハッド」に象徴されるように、一貫して高潔な紳士として描かれる。

そのハリーがイライラとした表情を覗かせるのが、エグジーが愛犬を撃つことをためらって試験に落ち、キングスマンになることを諦めてひとり帰宅した時だ。ハリーは強引に彼を私邸に連れ戻し、感情を叩きつける。そこで呼び出されて、例のチャーチ・ファイトが始まる。

この時のハリーの大量殺戮に関しては「SIMカードを所持していないものにも影響がある」と劇中で説明されているが、私には、ハリーがエグジーに対する「個人的な怒り」を秘めていたことも少なからず影響していたように思える。

ヴァレンタインがスイッチを入れる前から、ハリーは感情的だった。聞くに堪えない差別的な説教に苛立ったようにカモフラージュされているが、意見を異にする人間たちの中にうまく紛れる経験は、これまでにもあったはずだ。心中には、エグジーに対する感情が燻っていたのではないか。

正気に戻ったハリーが自覚するのは、操られていた自分ではなく、その前の、私情に翻弄されていた自分だ。ハリーの死は、彼自身にとっては「キングスマンとしての自分の死」なのだ。

 

エグジーに対するハリーの怒りは、SHERLOCK第3シリーズでクローズアップされた「ワトスンに対するホームズの感情」と同じ種類のものだ。

唯一信頼できるパートナーであったはずの者、目をかけて育てたはずの者。一旦懐に入れてしまった相手が、一番根っこのところでは自分と同類ではありえない。その事実を知ってしまうということは、孤独な天才にとってはどんなに嘆かわしいことだろう。それはすなわち、完全に孤高でいることができない己の限界を知るということでもある。

 

しかし、だからこそ、ハリーの死はホームズの死と同様に、肉体の死ではない、と思う。ハリーが生きている根拠は劇中にもいくつか提示されているのだが、私は「キングスマン」の後半部を『最後の事件』に見立てる、という酔狂をやった上で、ハリーの「帰還」を信じたい。

エグジーは、ハリーを失った上で立派なキングスマンになった。

ワトスンは、ホームズを失った上で人気作家になった。

同じように、痛みを知った上で蘇る者には成長があるはずだ。

ヒーローは、全てを切り捨てた、ストイックで完璧な存在でなくてもいい。そうでない部分をこそ、私たちファンは愛する。

 

追記(2015年11月20日)

エグジーがマーリンを「マイクロフト」と呼んだくだりについて、「マイクロフトがマーリンの本名なのでは?」と友人から意見をもらった。

その可能性もあるが、仮にエグジーがマーリンの本名を知っていたとしても、敵地で唐突に本名を用いるというのは周到な彼に似つかわしくない気がするので、私は(メタ的な解釈を置いておくとしても)「ホームズ由来説」を取りたい。

エグジーはButlerではなくvaletという言葉を使っているので、本来は執事(従者の仕事に加え、屋敷全体のの業務を統括する)よりも従者(主人に付き従って身の回りの世話や秘書業務をする)という訳が適当なのだと思う。

従者といえばジーヴス&ウースター、と私はすぐに連想してしまうのだが、それは私の英文学の知識の裾野が短いからで、同様に「咄嗟に出した従者の名前」が「ホームズの兄・マイクロフト」というところに、エグジーの読書歴が見えてくるのかもしれない。

エグジーは「プリティ・ウーマン」を観たことはなくても、「マイ・フェア・レディ」はなぜか知っている。いかにも不良少年、という服装をしている一方で、キングスマンに並ぶ高級スーツにも憧れる。

無知でもなければ博識というわけでもない。下品なだけでもなければ、スノッブでもありえない。優等生的な資質を持ちながら、不良少年の社会に馴染んでいる。知識や興味のグラデーションにおける、ある部分がばっさり抜け落ちている、という感がある。

英国において、何を読んでいれば読書家っぽいのか、そのあたりの空気感は私にはわからないのだが、日本の青年に置き換えれば、今はヤンキー漫画雑誌に熱を上げる一方で、子供時代は読書を好み、新刊書は買ってもらえなくても学校の図書室にある本はよく読んだ、という感じではないだろうか。そうだとすれば、「シャーロック・ホームズ」のキャラクターが口をついて出てくるのにもうなずける。

マイクロフトが選ばれたのは「マーリン」と頭文字が同じで、格式の高そうな名前、ということだろうが、もしもそこに「最後の事件」を読んだ記憶が紛れ込んでいたとしたら、やはり自分にとって一番のヒーローであるハリーに、子供時代のヒーローだったホームズを重ねちゃったんじゃないの!?もしかしてだけど!もしかしてだけど!と言いがかりに近い妄想を重ねる私である。

 

追記2(2015年12月5日)

上記の記事中、「ワトスンが何もできないキャラクター代表のように言われる」というくだりについて、ツイッター上で「この記事を書いた人はワトスンを何もできない人間扱いしている」というご意見をいただいていると、友人から聞きました。

まず、ご不快な思いをされたことに対して謝罪致します。大変申し訳ありません。

これは長年ワトスンが好きだった私の「世間一般の評価に対する」実感であって、私自身がワトスンを役立たずだと思っているわけではないのですが、さまざまな作品がワトスンの素晴らしさを説いてくれている現在、一般論をそんな風に決めつけるのも乱暴だったと思います。

ツイッターのアカウントを持っていないので直接お話できず恐縮ですが(取ろうかとも思ったのですが、直接抗議なさっているわけでなく『呟いて』いらっしゃる方々に対してそれもまた不調法かなあと……)、これ以上嫌な思いをされる方が増えないよう、また、ツイッター上でワトスンの魅力を呟いてくださっている方々にどうにかして謝意をお届けできないかと、一縷の望みを託して追記させていただきます。

また、自身の表現力不足への反省の意味もあり、記事中の文は改正せずに追記のみさせていただいております。ご了承いただければ幸いです。

 

2015年

10月

18日

晴れたらいいね

福山雅治が結婚して、ショックを受けているファンと、そういうファンに対して「お前が福山と結婚できるわけでもないのに、どうしてショックを受けるんだ」と不思議がっている人がいるようだ。

 

私はショックだ。福山雅治だけでなく、誰が結婚するのも少しショックだ。

それは自分が結婚していないからで、宿題が終わっていないのに友達に「もう終わった」と言われるのと似たショックだ。人が終えていることを、自分はまだやっていない、という焦り。

しかし、宿題をしなくても死なないように、結婚しなくても死なない。

好きな人が結婚した時にショックなのは、その人が私の側の人じゃなくなるから、だと思う。

 

「どうしてショックを受けるんだ」と言う人は、人間を「独身側」と「既婚側」ではなく、「知人」と「他人」みたいなもっと小さなくくり、または更に小さく、個人単位で切り離して考えているのだろう。

そんな風に、論理的にものを考えられるのはすごくいいことだと思う。確かに、人を「独身側」と「既婚側」に分けるのはナンセンスだ。自分は結婚してるけど福山雅治が結婚するのはイヤ、という人だっているだろう。

一方、人の結婚を自分のことのように喜んだり悲しんだりできる人は、共感する力がある。それも素敵なことだ。

共感を持てるからこそできることも、客観を保てるからできることもある。

どちらの考えも、世の中に必要なはずだ。そして、二つの考えは同じ人の中に共存していて、かわるがわる顔を出す。

 

たとえば皆「いじめをなくそう」と言うが、人を憎む力と愛する力は同じ人から出ているわけで、誰かを嫌うことをやめてしまったら好きになることもできなくなってしまう気がする。

「いじめをなくす」というのは考えや行動を理性でコントロールする、ということであって、負の感情をなくす、ということではない。人の感情を強制的に変えることは、誰にもできない。

感情を捨てなくても、いじめをやめることはできる。同じように、誰かの結婚を寂しく思うということと、その人の幸せを願うということは両立する、と私は思う。

 

そんなこんなで、Cさん、ご結婚おめでとうございます。

花嫁姿があまりに綺麗で、すごく寂しくて、すこしショックです。

独身自虐ネタを連発している私からの「おめでとう」はそらぞらしく聞こえてしまうかもしれないなあ、と危惧した末、この際徹底的に本音を書いてみることにしました。

拙くとも本当の気持ちを記したブログを受け止めてくださったCさんだからこそ、下手な例えにも「しょうがないなあ」と笑ってくださる……と良いのですが。


ご自身と旦那様を幸せにしてあげてください。Cさんのお力を持ってすれば、それは簡単なことではないかと思うのです。

もしもいつか、それを難しいと感じてしまう時が来たら、会ったこともない私という人間の心を温めてくださった、その実績を思い出してください。

 

遠い場所で私がCさんの幸せを願っているという事実は、基本的には何の役にも立たないと思います。でも、ないよりはあったほうがいい、かもしれません。

晴れたらいいね、と皆が願っていた日が晴天だったら嬉しいように、私の願いも、Cさんの幸せをほんのすこしだけ彩ることができますように。

 

2015年

9月

05日

アッセンブル!

「夏休み、何してた?」という質問にはいつも答えにくい。

普段会えない人に会ったり、興味があるけれど時間がなくてできなかったことをしたり、充実してるつもりなのだが、私の場合その楽しさが家族や同僚に伝わりにくい。

正直に言うと、アメコミ嵌りたてで、サービスデーの度に淡々とアベンジャーズを観る夏だった。私の職場は8月比較的暇なので、退勤後は避暑を兼ねて映画館に通った(エアコン代と天秤にかけた上で、比較的料金が安い日だけだが)。

晩夏のある夜、ふっと確信した。通ってるのは、私だけじゃない。

 

・50代くらいの男性(いつも一番乗り)

・30過ぎくらいの男性(『スターウォーズ』宣伝J.J.エイブラムス監督の挨拶の前くらいのタイミングで入ってくる。スーツ姿)

・20代半ばくらいの男性二人組(いつも『映画泥棒』の直前くらいにポップコーンを抱えて入ってくる)

 

そして私。

 

他にカップル一組か二組くらいはいるのだが、レギュラーメンバーは固定されている。エンドロール後の「Avengers will return」まで席を立たないのはこの5人だけだし、終了後駐車場までとぼとぼ歩く(『私の想い出のマーニー』参照)メンバーも同じ5人だ。

こっち(観客)も毎週アッセンブル。言ってみればアベンジャーズ群馬支部である。

だったら私がナターシャではないか。胸より下腹が出ていようと、暖かい飲み物とレンタルブランケットが手放せず、上映前に念のためトイレに立つプレ更年期であろうと、遺伝子学上私が一番ナターシャ・ロマノフである。

最終上映(の直前のサービスデー)の夜、私は俄然「このメンバーをまとめたい」という気持ちになっていた。

なんとなく「また会いましたね……」というアイコンタクトを交わしながらも、駐車場までの長い道のりを無言で歩く、内気なマーベルおたく4人組、プラス私。縁あって同じ夏を過ごした仲間に交流をもたらすのは、紅一点の私の使命ではないか。

その時男子二人組の片割れが、しみじみとした声で相方に「終わっちゃうな」と話しかけた。すかさず私は、さりげなさを心がけつつ「終わっちゃいますねえ。よく通いましたね~」と割り込んだ。

「あ、おねえさん何回か会いましたよね。俺ら初日から来てました」

「実は俺も……」

駐車場までの無言の道行きは全員にとって気づまりだったようで、和やかに会話が始まった。思い切って話しかけてよかった。毎度気まずかった数分間が、一気に心楽しいものに変わった。

駐車場の入り口で、一番年嵩の男性が「じゃ、『アントマン』で会いましょう」と茶目っ気たっぷりに振り向いた。

するとスーツの男性が

「あ、私マーベル好きというわけではないので、次来るのはスターウォーズだと思います」

……わざわざ言わなくてもよくないか、それ。

そこで男子二人組が「俺らもアントマンはあんまり」

だから言わなくていいじゃん。おじさん気まずそうじゃん。

私に視線が集まる。

「えーと、アントマンは観に来ると思いますが、次にこんなに通うのはシビル・ウォーかも……」

途端に場の空気がほぐれた。皆、仕方なさそうな苦笑を浮かべた。

なんか、「所詮腐女子か」的な。

「どうせクリス・エヴァンスの尻観に来てるんだろ、わかってねえな」的な。被害妄想かもしれんが。

思ってたのと違うけど、紅一点の活躍によってなんとなく穏やかに解散し、我々の夏は終わったのだった。

 

 

結論:アベンジャーズ群馬支部は帰ってこない。

 

追記(2015年10月10日)


その後、『アントマン』上映で男子二人組の片割れと遭遇。

「ちくしょう、『アントマン』めちゃくちゃよかった~!」

「次におじさんに会ったら土下座して謝りましょう……」と反省しながら駐車場に向かったのだった。


結論:おじさんがキャプテン。

 

2015年

8月

28日

霧雨の東京で

知らない街を歩いていると、急に不安になる。

都会に住んでいたこともあるので、全く状況がわからないわけではないのだけれど、初めて親元を離れて街を歩いた時の自意識過剰な不安を、全く同じように今も感じる。

今日のように仕事を休んでいる時は尚更だ。あの、煩わしくも居心地のいい場所で安穏としていることもできたのに、どうして私はここにいるんだろう。時間も場所も曖昧になり、自分の意志でやってきた、ということすら忘れてしまいそうになる。

自分ではどうにもならない力で、遠いところまで流されてしまった、と思う。

 知っているチェーンのお店が現れると、道しるべを見つけたようにほっとする。大丈夫だ。まだ、そんなに遠くには来ていない。

 

昔の駅舎を利用した、素敵なカフェでコーヒーを飲んだ。

霧雨が降り続けていたが、川に面したテラス席を選んだ。物慣れた感じの人人たちが楽しそうにビールなど飲んでいる、暖かそうな店内には居たたまれなかった。

熱いコーヒーと、マグのしっかりした重さが心強いと思った。

暫くそこにいたかったけれど、外国人観光客がお店の外観を撮りたそうにしていたので、邪魔にならないようにそそくさと席を立った。

 

目的地には近づいていたのだが、早く着きすぎたらまた途方に暮れてしまいそうなので、真剣に探さないことにしてぶらぶらと(でも、人目には目的ありげに見えるように意識しながら)歩いた。ふと、愛読している漫画の発売日が過ぎていることに気づいて、傘を畳んで書店に入った。

本屋さんも、私の味方だ。本屋さんは、ぶらぶら歩きを許してくれる。知っている本もあるし、知らない本もある。それを手にとってもいいし、とらなくてもいい。

 

高校生の時、世界には二種類の人間がいるのだと思った。

誰とでも家族のようになれる人と、たとえ家族といてもひとりぼっちになってしまう人。

そう考えたとき、私は後者だ、と思った。後者だと気づいてしまった、と。

もちろん世界はアホな女子高生が考えるほど単純じゃなく、たぶん誰もが前者にも後者にもなる。

人は、時々異邦人になる。どこにいても、誰といても。

そうとわかっても、さびしさが消えるわけではない。でも、本屋さんは異邦人を受け容れてくれる場所だと思う。ひとりの異邦人になって良い場所、と言ってもいい。

 

友人のレクチャーでマーベルコミックに嵌っているのだが、うっかり彼女が教えてくれた範囲を超えたところまで立ち読みをしてしまい、うわー!うわー!マジで!?と震えながらチェーンのコーヒー店に駆け込んで、友人にメールをした。

友人は仕事中なのですぐに返信がくるはずもなかったが、もう大丈夫だ、と思った。いつの間にか、知っている場所に帰ってきていた。

『夕焼け小焼け』のやわらかなメロディが街に流れ、スーツ姿の、でもリラックスした顔の人たちがビル群から溢れ出てきた。

まだ濡れている窓から見下ろすと、本屋さんの前に自分の傘が見えた。

2015年

8月

21日

すこし、イヤだと思ったこと

「久保みねヒャダこじらせナイト」というトーク番組がすごく好きで、レギュラー化される前からずっと録画して観ているが、先日少しだけ「好き」という気持ちに影が差した(たぶん、出演者のせいではない)。


「こじらせすき間ソング」というコーナーでは、例えば「節分の歌」とか「ゴールデンウィークに働かなくてはならない人の歌」とか、ニッチな需要しかない曲を、出演者たちが類いまれなセンスで作っていく。出演者はポップスへの造詣が深く、出来上がった曲はB'z風だったり、中島みゆき風だったりと、既存のアーティストへのリスペクトが込められている。

先日は小室哲哉風だった。「毛サバイバル」というタイトルで、小室テイスト満載の言語感覚と音楽に載せられたバカバカしい歌詞がたまらなく可笑しかったのだが、小室哲哉本人にコメントさせていたのには「ん?」と思った。

これって、小室が不快に思っていたとしても、その気持ちを出せないんじゃないか。本人たちの事情がよくわからないので余計なお世話かもしれないが、「馬鹿にされた気がするな」「嫌だな」と思っても、洒落のわからない男と後ろ指さされるよりはと、人気番組という長いものに巻かれるしかないんじゃないか。

弱者が強者をおちょくっているようでいて、結局は弱い者いじめをしているんじゃないだろうか。


私は小室哲哉の大ファンだったわけではないが、曲を耳にすると、学生時代がわっと蘇ってくるような興奮を覚える。番組はライブの中継という形式だったのだが、おそらく観客のほとんどにとっても同じだろう。でも、観客や視聴者にも、コムロに対してどこか侮りがあるのではないか。その曲を口ずさんでいた自分を過去の物にすることで、その時代を彩った人までも過去の遺物のように感じているのではないか。私たちが「その後」を生きているのと同じように、その人も「その後」を生きているのに、だ。

人をおちょくるのも侮るのも、一つの表現だし、表現をするなら自身が誰かの表現の標的になるのも覚悟しておくべきなのだろう。でも、「私たちはあなたが大好きなんですよ!だからこれはリスペクトなんですよ!笑って許してくれますよね!」という大義名分のもとに「おちょくっている現場」に本人を担ぎ出すのは、なんかやだな、と思う。

 

同じように「なんかやだ」と思ったことがあって、それは『コクリコ坂から』という映画の公式サイトで宮崎駿からの『メッセージ』を読んだ時だった。この『メッセージ』は「自分がいかに駄作を名作に仕立て直してやったか」という風に読めてしまって、私には不快だった。

「原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリ」「脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない」などの批判には共感するし、宮崎映画の「そうしないところ」が好きだ。ぶっちゃけ、原作より映画の方が好みだ。

でも、原作にもその時代ならではの輝きがあったはずだ。少女漫画には少女漫画の存在意義があるし、独自の作法がある。そこを全否定するような文章を公式サイトに載せるくらいなら、その原作使わなきゃいいじゃん。

他人の褌で相撲をとっといて、貸してくれた人に「褌って時代遅れですね。っていうか相撲つまんないんで、ボクシングしました」って言ってるようなものだ。

 

以前、アガサを騙したホームズむかつく、みたいなことをブログに書いて、その時代背景も考慮しなくては、とコメントをいただいたことがあった。私は「現代人の立場からの意見があってもいいはず」という旨の反論をしたが、私の書いた文章にも「やな感じ」があったのかもしれないな、と思う。私がホームズを批判しても弱い者いじめにはあたらないだろうが、後出しはいつだって、ある程度卑怯だ。

時間が経っているからこそ気づけることもあるから、後出し自体は悪いことじゃない。でも、現在の自分の価値観だけを基準にして、過去の物事を公然と笑い者にするのはやっぱりみっともないことなのかもしれない。

とはいえ、「みっともなくない」ことだけに拘泥していては、何も言えなくなってしまう。そのままの自分を見てもらうのも、表現ということなのだろう。

よく考えてから口を開く、というのは、いくつになっても自戒しなくてはいけないことだと思う。

みっともない、とかやだな、と人に思われないためではなく、自分で自分をそう思わなくて済むように。

 

2015年

8月

02日

感想を言わずにはいられない

読書感想文の季節である。

私は物心ついた頃から本を読むのが好きだった。しかし、読書感想文を書かされるのは苦痛だった。

大人の期待に応えたい一方で、どう書けばいいのかまるでわからなかった。お手本を理解して取り入れる賢さもなければ、心のままに綴るような奔放さもなかった。

 

自分でも不思議なのだが、感想文を書かなくてもよくなった今、何故か頼まれもしないブログを綴っている。

人の感想を読むのも大好きになった。感想を書いたり読んだりするということが、いつの間にか小説や映画を楽しむことの一部になっている。

 

『マッド・マックス~怒りのデス・ロード』は、感想や考察を誘発する映画だ。さまざまな人がそれぞれの視点から感想を書いてネットにアップしている。

最初は大興奮!とかすげえええ、とかV8!V8!とか、「単語の感想」を言いたくなるが、だんだん「自分はこの作品のどこに惹かれたのか」と考えさせられる。人の感想を読んでなるほど、と思い、もう一度映画館に行く。即効性のアドレナリン誘発剤のような映画と思わせておいて、実は遅効性の毒も仕込まれていて、あっという間に中毒にさせる。

二種類の毒の正体は、すでに語り尽くされていると思うが、手っ取り早く言うと「キャッチーさ」と「奥深さ」で、どちらかだけではダメなんだろう。

「薄っぺらい作品」という表現は、入口が一つしか見当たらず、入ってもその先がなかった、という気持ちの表れだと思うが、この映画においては、背後に作りこまれた世界の発露としてのかっこよさ、かっこよさに説得力をもたらす世界観が相互に作用して、きれいな立方体として結晶している。あらゆる面にファンが取り付き、よってたかって研磨することで何面体にも進化し、最後には球体になる(それって、もはや宗教かもしれないが)。

 

私がどんな入り口から入って何を感じたかも書いておきたい。

私の住んでいる地域はおそらく日本で一番暑く、もし冷房がなかったら、体力のない者から順に死ぬ。子供のころは「贅沢品」だった冷房が、もはや生命維持装置である。

熱中症癖のある私は、ぼーっとした頭で「電気代が払えなくなった時が私の寿命かもしれない」と考えてしまう。

大げさに聞こえるかもしれないが、暑さには逃げ場がない。サウナに閉じ込められたような不快感がどこまでも続き、体力も思考力も落ちていく。頑健な体を手に入れるか、対価を支払って生命維持装置のスイッチを入れない限り、生き延びることはできない。「冷房を適切に使ってください」ってなんだ。使えないなら死ねと言うのか。これって既に立派なディストピアじゃないか。私たちは、最悪の未来に向かって緩慢な自殺を続けているんじゃないか。

 

『マッド・マックス』はディストピアをかっこよく描いていた。

過去の人たちが犯した過ちのせいで短命にされ、搾取者への妄信にすがって生きている人たちをかっこよく描いていた。その絶望的な状況を打破しようとする人たちをかっこよく描いていた。ついでに独裁者たちまでかっこよく描いていた。彼らの圧倒的な生き様を見てしまったら、漠然とした不安など吹き飛ばされる。

『マッド・マックス』を観た帰り、電車の暗い窓に映る私は、ほんのちょっとだけフュリオサ大隊長だ。

げっそりした、将来を悲観した、他者への不満ばかり募らせた中年のおばちゃんじゃない。静かな怒りに満ち、状況に負けない意志と弱い者を庇う覚悟を持った、背筋の伸びた中年のおばちゃんなのだ。

そういう風に人を鼓舞する映画って、やっぱりすごい力があるのだと思う。 

2015年

7月

18日

局力が欲しい

友人たちとショッピングモールを歩いていた時、一人が荷物を紛失した。

案内所には人形のように可憐な女性が座っていて、遺失物センターに問い合わせをしてくれた。その間、私たちの目は彼女の完璧なメイクに釘付けだった。

忘れ物はすぐに見つかった。しかし受け取りの手続きは煩雑で、案内嬢のちょっとした手違いのため、さらに面倒になった。

帰り道、私と友人たちはふざけて「お局様トーク」を始めたのだが、「睫毛盛ってる暇があったら○○してくれないかしら」みたいなベタなフレーズしか出てこなくて、ちょっと愕然とした。

 

いい年こいて、我々には「局力(つぼねりょく)」が全くない。

 

以前書いた「びじゅチューン」に「お局のモナリザさん」という歌がある。

人気作家・柚木麻子の小説を映像化した「ランチのアッコちゃん」というドラマも、最近まで放映されていた。

どちらにも、戯画化された「お局様」が出てくる。共通するのは、仕事ができ、社内を熟知していて、後輩に厳しい(そして実は優しい)こと。冴えわたる厭味、謎に満ちたアルカイック・スマイル。

 

女同士の友人関係において、昔から私は面倒を見られる側だった。

そんな私と長年付き合っているくらいだから、友人たちは後輩に厳しそうでは全然ない。おそらく、優しい先輩だと思う。 

私はわりとずけずけ言う方だが、あまり周りが見えていないし、謎めいてもいない。ボケかツッコミかで言えばボケだ。後輩が育ったとしても、先輩のおかげですなどとは毛ほども思われてない、そういうタイプだ。

 

チームで働くのに必要な人材とは何だろう。

信頼され、決断力のあるリーダー。実務をまとめるサブリーダー。そして、ドラマでは大抵「お局様」がいる。

サブリーダーを兼ねていることもあるが、お局はただのサブリーダーではない。批判ができ、状況によっては嫌われ役も引き受け、しかし愛情を持ってチームを支えることができる。

人は人に好かれたいものだ。嫌われることを厭わない、というのはすごく精神力のいることだ(もちろんただ単に嫌われるのではなく、『チームのためを思ってあえて嫌われる』という場合に限るが)。

困るのは、精神力が育っていないのに、年齢と立場だけどんどんお局ポジションに近づいていることだ。無邪気キャラでいるのは、年齢的にも、仕事上の経験値から言ってもアウトな気がする。しかし局力がないままお局的な言動をしても、それはただのイヤな女だ。

 

女の子からお局になる段階で、母親と言う立場を経験していれば違ったのかもしれない。母親は、子どもから嫌われないという自信のもとに、時に嫌われ役をすることもあるだろう。絶好の局実習だ。

独身女性が多いことを考慮して、ある程度の年齢に達したら、研修をしてくれないものだろうか。局の。

しかし、されたらされたでセクハラだと騒ぐのが我々だ。もうちょっと個々の自覚に訴える感じで、女性誌で「局特集」とかやってくれないか。「愛される局になる!」とか。愛されちゃだめか。

いっそのこと『TSUBONE』とか創刊してくれたら、私は買うぞ。「この一言がオフィスを変える!絶妙な厭味とそのフォロー」特集とか、「クール系局VSお母さん系局・一週間着回しコーディネイト」企画とか、食い入るように読むぞ。創刊号の付録は、ロッテンマイヤーさんの眼鏡がいい。

局という言葉が悪いのかもしれない。男性しかいない職場でも、女性でいうお局にあたるポジションの人が要るはずだ。

TSUBONEに代わる、親しみやすい名称を次の会議までに各自考えてくるように。下半期の査定に響くので、そのつもりで。

 

 

2015年

5月

30日

鑑賞という芸術

つい先ほど、「びじゅチューン」DVDをamazonで購入した。

 

「面白いな」「もっと観たいな」「手元に置きたい」という動機でDVDを購入したことは、これまでにもある。しかし、今回はちょっと違って「あんたの才能に、私はお金を払う!払わせてくれ!」というニュアンスがある。

 

3000円足らずでパトロンヌ気分かよ、と言われそうだが、ワーキングプアの私にそんな錯覚を抱かせてしまう井上涼という人はすごい。

何度もブログの日記欄に書いているが、もともと「びじゅチューン」は好きだった。しかし私の経済状況では、テレビやネットで鑑賞できるものをわざわざ購入する余裕はない。DVDも買う予定はなかった。

 

パトロンヌ気分が爆発したきっかけは、「紅梅図屏風グラフ」という作品だ。

それまで私のベストワンだった「樹下鳥獣図屏風殺人事件」では、方眼状に区切って彩色された絵 をパズル(謎)のピースに例えていた。そこまではまだわかるが、梅の枝が折れ線グラフに、敷き詰められた正方形の金箔がグリッド線に見えるって。あんた天才か。天才だろ!

 

私は読書が好きだし、美術館に行くのも好きだ。

でも、作家や画家を「天才」と表現したことはない。

単純に、わからないのだ。誰が天才で、誰が天才じゃないか。どれがすごくて、どれがすごくないのか。確信を持って言えるのは、「好きか嫌いか」だけだ。

井上涼を「天才だ」と言ってしまえるのは、「鑑賞する者同士」でもあるからだと思う。同じ作品を見ても、私はあの屏風に折れ線グラフを見出すことはできない。ゆえに井上涼はすごい。心から尊敬する。

 

創作者としての彼が天才か天才じゃないかは、断ずることができない。「びじゅチューン」は大好きだし、彼の歌は毎日口ずさんでいるし、発想も表現力も素晴らしいと思うけど、仮に「美術を歌にする人評論家」が現れて理路整然と「びじゅチューンがすごくない理由」を述べたとしたら、反感を抱きつつも「そうですか」と言ってしまうかもしれない。私は創作者じゃないから。ぶっちゃけよくわかってないから。

でも、もし「仕事をする」こととか「ブログを書く」ことが創作のはしくれであるならば、私は井上涼のような創り手になりたい。

「びじゅチューン」は一応教養番組だと思うが、難しい理屈など一切出てこない。紹介する作品を、彼の目で見て、彼が面白いと思い、そこから産まれてきたものだけが、ばーんと叩きつけられる(感触としては、ふにゃっと差し出される)。

 屏風絵が折れ線グラフ、というのは「正しい解釈」では絶対にないだろう。しかし、正しさが何だというのだ。そんなもんちょっと検索すればいくらでも出てくる。

彼がそれぞれの作品を深く理解し、広範な知識を持っているという事実は、作品の端々から読み取れる。しかし、知識の切り貼りや既存の解釈の羅列は、人を惹きつけない。

「びじゅチューン」が教えてくれるのは、美術の知識ではなく、鑑賞という行為の楽しさそのものだ。創作も、鑑賞も、本来は個人の楽しみであると思う。そこに他人を巻き込むことができるのは、やっぱりすごいことなのだ。

私も、小理屈を唱えなくても本質を伝えられる仕事をしたいし、「物知りなブロガー」よりも「ドラマ鑑賞や読書の愉しみを伝えられるブロガー」になりたい。しかしそうなるには知識を得ることが大前提なので、仕事関係の皆さまにもブログでお世話になってる皆さまにも引き続きご教示賜りたく思います、と土下座する次第であるわけだが。

 

ところで、初版分には、DVDについているハガキを送ると井上涼が好きなキャラクターを描いて返送してくれる、という、後世の人が聞いたら泣いて悔しがりそうな特典がついていたそうだ。

もし描いてもらうとしたら、誰を選ぼうか。

機嫌のよい時「かみがた~をかえたい~の♪」と思わず口ずさんでしまうのに収録されなかった「ファッショニスタ大仏」をお願いして、次巻への収録希望をアピールするか。正統派美少女「真珠の耳飾りのくノ一」で行くか。好きなキャラは「アイネクライネ唐獅子ムジーク」の作曲家コンビなのだが、描線が多くて描くのに時間がかかりそう。リクエストはたくさん送られてくるだろうに、うっとおしがられないだろうか。

……たかが購入特典なのに(しかも実際もらうわけでもないのに)、「このキャラクターを選ぶとは、わかってるな」と井上涼に思われたい、という自意識がバリバリに働いている。

自らの意思を表明するという行為は、どんなに小さなことでも、表現の始まりなのだろう。

 

 

2015年

4月

29日

YOUは何しにギロッポンへ

六本木という街には、働くようになって初めて出入りするようになった。

アメリカ人の同僚に連れられて、T.G.I.FRIDAYに行ったのが最初だった、と思う。

以来、赤坂、六本木界隈は、何かにつけて「初めての体験」をする場所になった。体験型レストランに行ったのも「NINJA」が初めてだったし、初めてマーティン・フリーマンを見たのも、「観客が歌う映画」を観たのも六本木ヒルズだ。お金持ちが多そうな雰囲気に気後れして、「何かないと行かない」というのが正直なところかもしれない。

そんな気後れの街・赤坂や六本木で、唯一リピーターになったパブがある。リピーターと言っても群馬に住んでいるので両手の指に足りない回数だが、なんとなく落ち着ける場所で料理もおいしいので、遠方に住む友人たちとの集合場所のようになっている。がやがやしている上に周りの会話が英語なので、日本語である程度気兼ねなく萌え話ができるのもいい。

先日も利用した。Rさん、Lさんと私の3名で入店しようとすると、店員さんが「イベントをやっているが、構わなければ」と申し訳なさそうに告げた。

真冬で、外は雨降りで、お腹は空ききっていた。それに気を遣われないことこそが私たちにとっての利点なので、全くもってノープロブレムである。構わん構わん、と意志表示すると、店の真ん中にあるテーブルに通してくれた。

食事より、酒や調味料を置くのが目的という感じの、丈が高く天板が二段になっている、小さな丸テーブルだ。着席すると、向かいに座るRさんの顔が、一段目と二段目の間に顔を差し入れて覗かない限り見えない。座ってくつろぐよりも、伊達男が肘をかけてもたれかかっていたり、吹っとばされた男になぎ倒されて、周りの客が悲鳴を上げるような場面が似合いそう。

しかしまあ、なんとか食事はできる。使用面積は小さくても、二段あるからお皿は倍乗るし。気にしないことにして飲み物を注文していると、けたたましくホイッスルが鳴った。

客の全員、いや半分が、さっと席を立つ。立ったのはいずれも男性、残ったのは女性だ。よく見ると、私たち以外の全員が名札をつけている。

我々3人の丸テーブルを世界の中心として、時計回りに男たちの大移動が始まる。さっき申し訳なさそうだった店員が声を張り上げ、「次のホイッスルは15分後」と告げる。

 

初めてだが間違いない。これ、お見合いパーティーだ。外国人の。

おそらく外にもお知らせがあったろうに、ちゃんと見ずに入店したこちらが圧倒的に悪い。悪いのはわかってるが、言わせて欲しい。

 

断れよ!

 

かくして、15分おきにホイッスルが鳴り響く中、私たちは飲み食いを堪能し、人にうるさがられる心配全くなしに(周り皆それどころじゃない)、マッツ・ミケルセンやリチャード・アーミティッジへの愛を伸び伸びと語りあったのだった。

時々名札を付けた男性が陽気に飛び込んできては、全ての椅子が(若干お姉さん気味の)女性で占められてることに戸惑いを隠さなかったり、隣のテーブルのエリカ(仮)をボブ(仮)が席を離れた後も狙ってるのにエリカ(仮)はユージーン(仮)に惹かれてるのが丸わかりでこっちがハラハラさせられたりしたが、それもまた良い思い出である。

他人の恋愛模様の情報が一方的にインプットされ過ぎて、アウトプットするべく近くのコーヒーショップで自主反省会を行わずにはいられなかったが……。


そんなこんなで、就職したての頃から今に至るまで、六本木は新しい何かが起こる街であり、未体験のことだってまだまだあるのだ。

とりあえず「いい年してふらふらしてないで、婚活しろよ」攻撃に対し「お見合いパーティーに参加したことならあるんですけどね~」とにっこり笑う、という迎撃パターンがひとつ増えた。めでたし。

 

2015年

3月

10日

スネ夫のママのケーキ屋さん

そのメールは、年に2回か3回やってくる。

文面はいつも同じで、至ってシンプルだ。

 

「例のアレ、そろそろどうですか」

 

私の返信も大抵同じ。

 

「了解。いつものメンバーでいいですか。連れてきたい人がいたら人数を教えてください」

 

金曜が来ると、私は残業せずに早めに職場を出る。仕事が残っていたとしても、翌日に休日出勤すればよい。

帰宅したら、簡単な料理を作る。ショートパスタとか、ピザとか、ワカモレとか、あまりお腹がいっぱいにならないようなもの。

6時くらいになると、職場の仲間がスナック菓子や飲み物を携えてやってくる。軽い夕食をとりながら、職場の愚痴を言い合う。金曜ロードショーでジブリ映画がやっていたら必ず観る。ジブリのキャラクターと付き合うなら誰がいいかとか、くだらない話をダラダラとする。

映画が終わると、私はおもむろに湯を沸かし、紅茶やコーヒーを淹れる。この辺りで、子育て中のメンバーが子供を寝かしつけ終えて集まってくる。本番はここからである。

メールをくれた友人が台所から大きな紙箱を持ってきて、解体する。開けるのではなく、側面をはずして文字通り解体するのだ、箱は一枚の展開図になり、色とりどりのケーキが現れる。

歓声。キレイ、かわいい、おいしそう。

ケーキを選んで買ってきてくれる友人は、地元で有名なパティスリーの近所に住んでいる。旬のフルーツがたっぷり使われていたり、動物を模していたりと、どのケーキにも工夫が凝らされている。シーズンごとにたくさんの種類のケーキが出てくるので、網羅するにはこの「ケーキ会」が一番いい。

切り分けたりせず、四方八方からフォークを入れて食べる。下品かもしれないが、少しずつメンバーを変動させながらも、もう何年も続いている習慣だ。こういうケーキは一人ではなく、分け合ったり、SNSにアップしたりと、人と感想を共有しながら食べるのがいい。

深夜に甘いものを食べる背徳感と、明日は休みというささやかな幸せに浸りながら、眠くなるまで雑談を続ける。飲み会とはまた違った楽しみである。

 

実は、先輩に教えていただいたお気に入りの店がもう一つある。

先輩曰く「三角のケーキしかない」小さな店だが、入るとふわっといい匂いがする。クッキーやシュークリームのチェーン店から漂うこれ見よがしなバターの匂いとは違う、バニラのとも、洋酒のともつかない甘い香り。「ケーキ屋さんの匂い」としか言いようのない匂いだ。

ケーキは8種類ほどしかなく、もう見事に「想像通り」のケーキばかりだ。ショートケーキ、と聞いて10人中10人が思い浮かべるような形のショートケーキ。チーズケーキもプリンもそうだ。でも、チョコレートケーキにはお酒がしっかり効いているし、アップルパイのリンゴは甘過ぎず大振りで、ぎっしり詰まっている。どのケーキも、それぞれきちんとおいしい。端正な味がする。

このケーキに似合うのは、一人暮らしのアパートではない。海賊が町を襲うようにフォークを振るう女たちでもない。

ズバリ「応接間」だ、家具調テレビの上にレースかかってるみたいな。黒電話にカバーかかってるみたいな。飲み物は砂糖壺まで揃いのティーセットで淹れた「お紅茶」で決まり。スネ夫のママみたいな上品な夫人に淹れてもらえれば完璧だ。

テストで100点をとったスネ夫のように、ささやかないいことがあったら、私はこのケーキ屋さんに行きたい。応接間はないけれどきれいに片づけた部屋で、ティーセットはないけれどちゃんと手順を踏んで紅茶を淹れて、うやうやしく箱から取り出したケーキを皿に載せ、正座して食べたい。

その際SNSにアップはしないが、スネ夫のママの物まねは絶対にすると思う。

 

 

2015年

3月

01日

赤く塗れ

Blogというのはそもそも「自分が気になったニュースやサイトなどのURLを、寸評つきで紹介した英語のウェブサイト」だったらしい(Wikipedia)。「21世紀探偵」ではSHERLOCKのことばかり書いているが、そこで出会った方々のブログを拝読していると、SHERLOCKのこと以外にも、ブログ主さんが興味を持ったことが色々書いてあって、非常に面白い。現在YOKOさんがハマっていらっしゃる「イングレス」なんて、職場とアパートとスーパーマーケットしか行かない自分には全く縁がないが、YOKOさんが陣地を増やしていくさまを見ているだけで手に汗握る。「ラインハルト様、宇宙を手にお入れください」という心境だ。さすがのYOKOさんも群馬にキルヒアイスがいるとはご存知なかろう。キルヒアイスと違って役に立ってるわけじゃないし。

ドイルの外典発見事件でリンクさせていただいたTomoさんは海外を飛び回るお仕事をなさっていて、ブログもその行動範囲に連動するかのようにさまざまな話題に満ちている(実はかなり昔からファンだった)。

3月1日現在のTomoさんの最新記事で紹介されたのが、「行った国を赤く塗りつぶす」サイト

Tomoさんはお仕事で50か国以上に行かれたそうだ。

私は旅行にもほとんど行かないので真っ白だろうな、と思ってやってみたら

意外と赤かった……

 

しかしこれにはトリックがある。

まず中国。職場の慰安旅行で、2泊3日で香港に行っただけである。そんだけでこの塗られっぷり。

アメリカは、仕事関係の資格を取るためにカナダにいた時に、バスでちょっと遊びに行っただけだ。何アラスカとか塗っちゃってんの、その上の方の島々も知らないから!ぶっちゃけ名前すらぱっと出てこないから!

アルゼンチンに至っては、ブラジルからイグアスの滝を見に行った時にちょこっと「アルゼンチン側」に回っただけだ。確かに国境は越えたし、パスポートも出したが、滞在時間2時間くらいじゃないか。そんなんでいいのか、塗っちゃって。

見た目の印象としては小さいが、日本列島がまるまる塗られてるのも感覚的にはとんでもない詐欺である。告白するが、私は北海道にも四国にも九州にも沖縄にも行ったことがない。基本的に関東ひきこもりだ、ハロー。

 

というわけで内情を告白すると(しなくても)、Tomoさんの50ヶ国には及びもつかないのだが、何だろう、この「塗りつぶす」気持ちよさは。なんかもう、内容が伴わないとかどうでもいい。赤けりゃいいんだ赤けりゃ。今、私はラインハルトだ。我が征くは星の大海。

 

……気付いてしまったのだが、人はこういう心境の時に「三大陸の婦人」とか言っちゃうんだよな、多分。

 

2015年

1月

31日

不用意な想像

「SHERLOCK」に関することは「21世紀探偵」の方に書くべきなのかもしれないが、なんとなく(より個人的な雑記である)こちらに書きたい、と思うことがある。

それは特に共感や承認を求めていない……いや、だったらネットに書かなきゃいいので承認欲求はそれなりに伴っているものの、どちらかというと「問いかけたい」よりも「吐き出したい」という動機によって書いた文なのだと思うが、その分類基準は自分でもよくわからない。

しかし、この記事をこちらに書いた理由ははっきりしている。「腐女子」的だからだ。

とはいえ、私はシャーロックとジョンが性的な関係を持つことにも、「腐女子」と呼ばれることにも抵抗はないつもりだ。

「腐女子」とは、「そういう見方」しかできない人、という目で見られがちだが、私の知る「腐女子」たちは、対象を鑑賞するうえで「腐女子的な視点」と「そうでない視点」を巧みに使い分けていると思う。鑑賞眼のチャンネルが一つ多い、とでも言おうか。

何と呼ぶのかは知らないが、女性同士の恋愛に「萌える」人たちにも同じことが言えるだろう。部外者の嫌悪感と本人たちの自虐的な自己演出が相まって必要以上に反社会的な存在になっているのは、色々な意味でもったいないことだなあ、と思う。性的なことに関する言動に理性が求められるのは、異性愛者も同じことなのに。まあ、反社会的な世界だからこそ惹かれる人もいるのかもしれないが。

いずれにしても、性に関することは生理的な嫌悪感に直結している。腐女子と思われるのが嫌なわけでも、腐女子が嫌いなわけでもないが、そういう話題への「心の準備」のない人の居心地を悪くするのは不本意なので、やはりこの記事は「日記」に書きたいと思う。

前置きが長くなった。「21世紀探偵」の記事も内容がシャーロックとジョンの関係性に偏っているので、見る人が見れば十分に「腐っている」と思うが、ここではストレートに二人の間の恋愛感情について書きたい。

そこに触れない限り、あの場面が解釈しきれないと思うからだ。

 

結婚式前夜、色々あって二人はひどく酔っぱらっている。つまり、言葉の上での駆け引きができない、少なくともそれが困難な状態になっている。

スタグナイトだから律儀にそうしているのだろうが、二人はパーティーゲームを始める。初級英語の授業でもやるような、単純極まりないゲームだ。

まず、物や人の名前を書いたカードを額に貼る。貼られた本人には、自分に何のカードが付けられたのかわからない。周りの人間に質問をして、「自分は誰なのか」を導き出す。

独身最後の夜に二人にこのゲームをさせるのは、お互いについての思いを正直に述べさせるためだろう。相手にとって、自分は何者なのか。どういう存在なのか。それを確かめ合う場面だ。

 

シャーロックの額には「SHERLOCK HOLMES」と書かれたカードが貼られている。ジョンが書いたカードだと思うが、おそらくこの場合の「シャーロック・ホームズ」はシャーロックの名前というよりも、有名な探偵としての「シャーロック・ホームズ」であり、"The Empty Hearse"のラストシーンで、記者会見に臨むシャーロックが帽子をかぶって「さあ、シャーロック・ホームズになる時間だ」と言った方の「シャーロック・ホームズ」だ。

「シャーロック・ホームズ」言い過ぎて何が何だかわからなくなってきたが、二人が改まって「シャーロック・ホームズ」と言った場合、それはシャーロックが事件を解決し、ジョンがブログを書くことで二人が作り上げた「シャーロック・ホームズ」という人物像なのだ。

しかし、ジョンは作者の片割れであるにもかかわらず、「シャーロック・ホームズ」を理解しきれていない。彼にとってそれは、依然としてシャーロック自身でもあるから。

もちろんシャーロックにも理解しきれない。ジョンの語る「シャーロック・ホームズ」像を聞いて「それは君だ」と結論付けたのは、おそらく本心だろう。「シャーロック・ホームズ」の半分は「ジョン・ワトスン」なのだから。

未完成のままの「シャーロック・ホームズ」をシャーロックに残して、ジョンはシャーロックのもとを去ろうとしている。見ようによっては、とても残酷なことであるが、誰も断罪はできない。

「犯人」は一人もいないのに、悲しいことが起こる。この世界ではそういうことがたびたび起こるが、この二人には解決できない。犯人がいて、事件が起こって、依頼人が来ないと「シャーロック・ホームズ」は何もできない。ある意味では、とても無力な存在だ。

 

ジョンの額には「MADONNA」というカードが貼られる。

有名な歌手の名だが、当然、崇拝の対象となる「聖母」も連想させる。

"His Last Vow"でマグヌッセンはジョンをシャーロックの「damsel in distress(嘆きの乙女)」と表現する。これまで多くの人を「誤解」させてきたが、本人が否定しても、周りの見方ではジョンはシャーロックの「恋人」なのだ。

そもそも、友情と恋愛の境目とはなんだろうか。定義するのは難しい。人間関係の定義は本人たちの主観次第だが、時に客観のほうが本質をついていたりする。

ジョンはシャーロックに"Am I a woman?""Am I pretty?"と問いかける。

異性愛者のジョンが発した場合、Am I a pretty lady?という問いは、「(男性である)君にとって、僕は恋愛対象になり得るのか」という質問にも受け取れはしないだろうか。

シャーロックの答えは "Beauty is a construct based entirely on childhood impressions, influences and role models."

「美とは子ども時代に受けた印象、影響とロールモデルで 決まる概念だ」

と彼らしいが、どんな意味においてもジョンの質問に答えていない。酔っているせいか、それとも、わざと答えていないのか。

そもそも、数年にわたる付き合いにおいて、この二人は恋愛やセックスの話をしたことがあるのかな、と考えてしまう。A Study in Pinkのアンジェロの店の場面で、ほとんど初対面に等しい二人がお互いを探り合う場面はいかにも遠慮がちだった。ジョンには次々にガールフレンドができ、シャーロックはそのことを正確に把握しているが、妨害しようという意図は見えない(結果的に邪魔してしまうことはあるが)。シャーロックとアイリーンの関係においても、ジョンとメアリの関係においても、二人はお互いの恋愛について否定も肯定もしない。というより、お互いその領域に踏み込むのを避けているように思える。原作でホームズがワトスンの結婚に「おめでとうは言わない」と言ったように、あるいはワトスンがホームズとハンター嬢のロマンスを願ったようには、踏み込まないのだ。それは、男性同士の友人関係において、一般的なことなんだろうか。シャーロックが女性に興味を示さないことを差し引いても、デリケートというか、わりと気を遣ってるんじゃないだろうか。

もちろんドラマに映ってない場でガンガン猥談してた可能性もあるけれど、少なくとも確認できる限りでは、そういう話題を持ち込むことに関して、二人は過剰に清潔だ。

そういう背景を踏まえて見ると、この場面はちょっと際どい。ジョンもシャーロックも「気遣い」を捨てて、かなり無防備な姿を相手に晒す。じっと相手を見つめたりもする。ジョンはより率直に、シャーロックはより素直になっているように思える。

ジョンはいきなり"Am I a vegetable?"(僕は野菜か)と問いかけるが、vegetableには異性愛者という意味もある。シャーロックはおそらく「二つの意味」を捉えていて、"You or the... thing...?(『君自身か、それともそこに書かれていることか』)"と反応する。また、よろけたジョンがシャーロックの膝を掴んでしまうが、シャーロックはわざわざ"I don't mind."と言う。ちょっと、妙な空気ではないか。さっきまで折り重なって階段で寝てたのに……

 この夜、二人が恋愛関係に転んだ可能性もあったのかもしれない。おそらく無意識にだと思うが、ジョンは、友情よりも恋愛を選んで去っていく者として、最後のチャンスをシャーロックに与えたのかもしれない。シャーロックにもまた、同じような意図があったのかもしれない。

いずれにしても、二人がそうなることはなかったわけだが。

 

ここに書いたことをこの脚本を書いた人たちに問いかけたら、巧妙に否定されるだろう。「シャーロックとジョンの間に恋愛感情はない。想像するのは勝手だがね」というのが賢い彼らのスタンスだから。

でも彼らは、私たちが知っていることを知っているはずだ。そもそもこの作品は「想像する」ことから生まれたと。

自分にない想像を持った人を糾弾するのも、カテゴライズしたりされたりすることで優越感や自意識を持つのも自由だ。しかし、どんな想像であれ、想像をした時点で私たちは皆「共犯者」なのだ、と思う。

2015年

1月

05日

誰かの幸せを祈るということ(映画『ホビット』」3作目感想)

私は、トールキン作品が苦手な子供だった。

意外な展開よりも予定調和を望む、自分の理解の範疇外に物語が転がっていくのを恐れる、そういう子供だった。

私の「常識」では、主人公は竜を倒して宝物を取り戻さなくてはならない。

湖の町の人たちは、勇敢なドワーフたちに協力しなくてはならない。

ビルボはドワーフたちと仲良くなったのだから、エレボールでいつまでも幸せに暮らすのだ。


しかし、この物語はそんな風に綺麗に収まってはくれない。

トーリンは死に、湖の町は焦土と化し、ビルボの家財道具は競売にかけられる。ついでに言わせてもらえば、私自身の人生も王子様に出会ったり大金持ちになったりしてハッピーエンド、というわけにはどうも行かなそうである。


負け惜しみかもしれないが、幸せでない、ということは、いいことでもあるのだ。幸せの外にいると感じるときにだけ、幸せというものの形が見えるからだ。

物語はいつも、幸せの外に転がり出てしまった人たちが、幸せを掴む、あるいは取り戻すために始まる。

その願望は「欲」と呼ばれることもある。欲は人を動かしてくれるが、時にひどく人を苦しめる。

欲の対極にあるものは、自分ではない誰かの幸せを祈る、ということなのかもしれない。


自らの中に潜む欲に打ち勝ったトーリンは、ビルボに「本や肘掛椅子が待っているぞ」と告げる。

かつてビルボが「君たちの気持ちがわかったから、手伝いがしたい」と言ったように、トーリンもビルボの望みがわかっていた。わかっていただけではなく、共感し、叶えてやりたいと思っていた。本来の彼は、そういう人だった。


初めにそれを見せてくれたのは、ドワーフの一人であるボフール。

彼は、王族ではなく、戦士ですらない。しかし、自分たちに不信と不満を抱いて逃げ出そうとするビルボに、何の迷いもなく「幸せを祈ってる」と言ってやれるという美点を持っている。

ボフールの優しさが、ビルボを変えた。変わらなければ、ビルボはトーリンを救えなかった。

結局、すべてはつながっている。

そして、次の世代へも続いていく。

前の世代がかなえられなかったことを、次の世代がかなえていく。

自分と全然違う人でも本当に大切に思える、つまり無私になれるというのがこの作品のテーマのひとつだとしたら、異種族の二人がお互いの幸せを祈る、というのはその究極の形かもしれない。

ビルボとトーリンの友情、キーリとタウリエルの恋は悲しい結末を迎えたが、それを見ている人がいる。伝え聞く人もいる。ビルボやタウリエルの悲しみは、レゴラスとギムリの友情や、私のまだ知らないたくさんの登場人物の幸せというかたちで報われるのだろう。どんぐりが芽吹いて、大きな木になり、たくさんの実を結ぶように。

そのどんぐりとは、ボフールの優しさのように、素朴な、小さな、どこにでもある、しかし何よりも尊いものなのだろう。

2014年

10月

18日

「SHERLOCK」の「居心地悪さ」

北原尚彦著「ジョン、全裸連盟に行く」を読んだ。

とても楽しかった。事件の構造がドラマよりしっかりしていると感じた。シャーロックとジョンのやりとりも軽妙で面白い。

個人的に嬉しかったのは、読んでいて心地良かったことだ。

ホームズの舞台は  ロンドンの下町、テムズ河、ダートムアの湿地と多岐に渡るが、221Bというホームがある。どんなに陰惨な場面でも、暖炉に火があかあかと燃え、お気に入りの椅子にかけて煙草をふかしたり、本を読んだりしているホームズやワトスンの場面に戻ってくるという、安心感がある。

どんな事件でも、ホームズはちゃんと解説してくれる。そして、ワトスンは読者と同じように、「ちゃんと、わからない」。

スマートフォンやインターネット、ネットスラングは「SHERLOCK」の時代のものでも、この作品は「正典」のコージネスを受け継いでいる。

 

ここに、ドラマ「SHERLOCK」とこの作品の違いが見えてくる。

「SHERLOCK」はどのエピソードも必ず「クリフハンガー」または新たな脅威、新たな謎を提示しながら終わることに象徴されるように、わざと視聴者を「居心地悪く」させている。

 

私は第1シリーズから第3シリーズまで、原作とドラマを見比べ、ドラマがどの程度原作を踏襲しているか考えている。非常に拙い作業ではあるが、ひとつわかったことがある。それは、「元ネタ探し」にゴールがない、ということ。かっちりと、綺麗にピースがはまるようには作られていないのだ。

 シャーロックは原作のホームズをモデルにしてはいるが、ホームズの性格はマイクロフトにも振り分けられている。いわゆる「ワトスン役」の枠を超えた活躍をジョンが見せることもあるし、ワトスンの役割をレストレードが担っていることもある。メアリに至っては、原作よりオリジナル要素の方が上回っている。単純に原作の登場人物を引き継ぐのではなく、性格の一部分を増幅させたり、解体・結合させて、新たなキャラクターを作っているのだ。

エピソードの扱いにも同じことが言える。

「ピンク色の研究」の元ネタは一応「緋色の研究」とされているが、単純に一つの作品が一つの作品の元ネタであるわけではない。どの作品も細かく解体され、再構成されている。

フランケンシュタインの怪物のように、切り刻まれ、不穏なかたちに造形されているのだ。原作を知っている者も、知らない者と同じ不安感を持って観なくてはならない。

 

原作の持っている安定感を崩す一方で、不安定さは再現しようとする。

ワトスンの名前や傷の位置の矛盾に合理的な回答を提示して見せたりもするが、時系列の矛盾やシャーロックのサバイバル方法、ジョンのブログに散見される「語られざる事件」などは、わざと曖昧にしてある。そういう部分にファンが躍起になるのを、確信してのことだと思う。

 

そして、「作り方」。第3シリーズではジョンの妻やシャーロックの両親に俳優の実際の家族をキャスティングしたが、あれは冒険だったのではないだろうか。イギリスのショービズ界の空気は良く知らないが、どれだけスタッフが「役に合っているから配役したのだ」と言い張ろうと、俳優のプライベートを持ち込むのは、「作品の質の追及を放棄した」という誹りを免れないはずだ。個人的な感想を述べれば、フリーマンのパートナーもカンバーバッチの両親も好演だったとは思うが、「この役は絶対に、この人でなければダメだ」とまでは感じなかった。

これだけの名声を得ておいて、なぜ、あえて「おままごと的な」ことをするのか。人気に胡坐をかいている、とも、逆に話題作りに必死になっている、とも言われているだろうが、その目的は好意的な評価を振り払うこと自体にあったのではないか。

その根底には、シリーズを重ねても「名作」になりたくない、視聴者の期待を良くも悪くも裏切り続けたい、という、ひねくれた中学生のようなマインドがあるのではないか、と邪推している。

(悪いことだとは全然思わない。ひねくれた中学生の素養なくして、誰が『ホームズ』を愛するものか)

「ひねくれ」とは、「最高傑作」と称される正統派グラナダ版ホームズへの反骨精神かもしれないし、逆に、そのポジションを尊重したいという敬意の表れかもしれない。アメリカPBSで放映された時のファンとのチャットだったか、モファットとゲイティスはシャーロックの年齢を聞かれて「8歳」と答えた。製作者が自分たちのホームズに施した「子供」という位置づけは、そのまま彼ら自身の立ち位置を表していたのかもしれない。

 

もっとも、原作にコージネスを感じるのは、完結してから時間が経っているからであって、リアルタイムで読んでいた読者は、私たちが「SHERLOCK」に感じているような不安を感じたかもしれない。

そして、あと数十年して「SHERLOCK」が「過去の名作」になる頃、後世の視聴者はシャーロックとジョンの不器用なつながりや、どことなく殺風景な部屋にコージネスを感じるのかもしれない。

北原氏の作品に心地よさがあるのは、原作に対する読者の「居心地悪さ」を補正しようとするシャーロッキアンの視点で書かれた作品だからでもある、と思う。「居心地の悪さ」にこだわる「SHERLOCK」とは、そこが違う。

言うまでもなく、どの作品にも「ホームズとワトスンの友情」というしっかりとした軸は感じられて、そこには揺るがないコージネスがあるのだけれど。 

2014年

9月

20日

アリのままで

小学校3年生の担任教師をしている友人が、児童の日記に「ひるやすみに、●●ちゃんがアリのままをうたいました」と書いてあったという話をしてくれた。

私も、アリの巣穴を掘り返しながらこの歌を熱唱している幼児を見かけたことがある。一部の子どもにとっては、昆虫の歌として理解されていると思われる。

 

幼稚園児の頃の私は、「まっかなおはなのトナカイさんは いつもみんなのわらいもの」を「いつもみんなのにんきもの」と歌っていた。黒い鼻より、ぴかぴかの赤い鼻のほうが断然クールだと思っていたのだ。

トナカイが人気者だとすると「いつもないてたトナカイさんは こよいこそはとよろこびました」の部分に破綻が出てくるのだが、これは「容姿のみをもてはやされることに虚しさを感じ、華やかなスポットライトを浴びながらも陰では涙を流していたトナカイが、人の役に立つことで真の喜びに目覚めた」と解釈していた。当時のアイドル漫画の影響だと思う。未だに、トナカイ役は田原俊彦(※当時のトップアイドル)という感じがする。

 

「ありのままで」を「虫であることで迫害を受けながらも、本来の姿を隠さずに生きる蟻の歌」という解釈で歌ってみても、大した破綻はない。「アナと雪の女王」という邦題も、字面がちょっと「アリの女王」っぽい。どうせ『虫の歌』などと解釈している子どもはちょっと聞きかじった程度の関わりだろうから、見間違いもしている可能性は大きい。擬人化作品文化や「バグズ・ライフ」や「アンツ」などのCGアニメ作品の存在も、誤解に拍車をかける。

 

ちなみに私が「赤鼻のトナカイ」の真実に気づいたのは、大学1年の時だった。ぼんやり道の後進たちにも、「アナと雪の女王」が蟻の女王の話でないことに気づく時が来ると思うが、なるべく遅くなるように呪いをかけている。

2014年

9月

13日

月見バーガー不要論

月見バーガーに納得がいかない。

贅沢過ぎやしないだろうか。ハンバーグとパンだけでも十分おいしいし、目玉焼きとパンでも十分おいしい。


組み合わせるともっとおいしいんだよ!と月見派の友人は言うけれど、これがベーコンと卵や、チーズとハンバーグの組み合わせだったら、私も理解できないでもない。これらは、組み合わせたほうが絶対おいしい。肉や卵に、ベーコンやチーズの塩気が影響するからだ。

しかし、、目玉焼き+ハンバーグってなんだ。結局はハンバーグソースを目玉焼きに対する塩気にしているのではないか。だったら目玉焼き+ソースでよくないか。ハンバーグが入っているのは、「○○バーガー」として売るための方便ではないだろうか。


私は月見バーガーの高カロリーを憂えているわけではない。伊達にこんなコレステロール値を抱えて生きてるわけじゃない。ビバ高カロリーだ。

しかしながら、私は「贅沢」と「期待値」のバランスにはこだわる人間だ。いつからだったか我が家のハンバーグにも目玉焼きが乗るようになったが、私は固辞している。ただでさえ楽しみなハンバーグに目玉焼きまで乗ったら、それは身に余る贅沢というものだ。一回の食事に、主菜二回分。目玉焼きハンバーグに値するような生産的活動及びカロリー消費を、私がした試しがあったろうか。

それに、単純にもったいない。ハンバーグも目玉焼きも、私は大好きだ。できることなら、思う存分楽しみにしたい。

以前の上司が食い道楽で、突然ケーキを買ってきてくれたり、「今夜寿司を奢ってやろうか」などと誘ってくれる人だった。ありがたいことで、みんな喜んでいたが、私としては3日くらい前に予告していただければもっと嬉しかった。そうすれば、寿司やケーキを楽しみに、幸せに暮らした3日間があったはずなのだ。

「なにかを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分にあたる」と、赤毛のアンも言っていた。アン説に従えばハンバーグ×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)+目玉焼き×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)=2。対して月見バーガー×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)=1であり、数学的にも月見バーガーの楽しみ度が低いことが立証されている。

だいたい、現代人は快楽を追求し過ぎた結果、素朴な楽しみを忘れてしまったのだ。月見バーガーの存在そのものが我々に警鐘を鳴らしているのだ。


ここまで黙って聞いた月見派の友人は、静かに「でもアンタ、カツ丼好きだよね」と呟いた。

無論、カツ丼はおいしい。卵丼もカツもおいしいが、合わせることによって全く別物になる。カツ丼はプライスレスだ。カツ丼を否定するなんてナンセンスだ。

2014年

9月

02日

すべてが薄くなる

前回の日記のタイトルが「すべてがfになる」なのに当該作品にまったく触れなかったので、犀川先生ファンの友人Yが立腹していた。

そうだ、「すべてがfになる」が映像化するんだった。犀川先生役は綾野剛だそうだ。

まず若くないか!?と思ったが、原作が出版された時点で犀川は私より年上だったけど、考えてみればだいぶ追い越した。これからは、若い頃読んだ小説が映像化される度にそう思わされる運命である。つらい。

次に薄くないか!?と思った。綾野剛の演技が印象薄いと言ってるのではなく、顔立ちの話である。これも、原作を読んでいた当時の流行りの顔が木村拓哉だったり、福山雅治だったり、今より甘めだったせいと思われる。

考えてみれば当時の私の犀川先生のイメージはなんとなく理系っぽいという理由でおぎやはぎ(どちらでも可)だ。別に濃くもなかった。

あまり俳優さんに詳しくないので、理由がざっくり過ぎて犀川ファンにもおぎやはぎファンにも失礼だが、この理由を適用するなら、岡田あーみん「こいつら100%伝説」に出てきたニセ歯医者も捨てがたい。


薄すぎないか!?といえば、御手洗潔が玉木宏、石岡が堂本光一で映像化という噂はどうなったんだろう。

友人にコメントを求められて、ミタライはもう少しコレステロール値の高そうな顔がいい、というわかりにくい返事をして失笑を買った。その時頭の中がコレステロール値のことでいっぱいだったと思われるが、これも犀川先生に感じたのと同じ感慨だろう。

今は、線が細くてすっとして、バタくさくない顔の俳優が「ハンサム」なのだ。私も綾野剛や玉木宏の顔が大好きだが、御手洗シリーズは今までに何度となく映像化の噂があって、御手洗役は鹿賀丈史だの豊川悦司だの言われていた記憶を保持しているから、その記憶と現代の俳優さんの印象のギャップが、時差ボケのような違和感を生み出している。ベネディクト・カンバーバッチをホームズとは認めない、という意見の根底にあるのも、こういう感覚なのかもしれない。

それにしても、石岡君はもう少しうっかり八兵衛感がなくていいんだろうか。堂本光一は身体能力ばっかり評価されてる気がするが、私は『銀狼怪奇ファイル』のぽやぽやした演技が一番好きだ。どの原作を映像化するか知らないが、「あの作品」以外はあえて王子様を封印してほしい。


何だかんだで人形劇のホームズもカンバーバッチとフリーマンっぽい顔だし、SHERLOCKのヒットを受けて、すべての探偵と助手コンビが「あんな感じ」にならないか、勝手に心配している。あれは、ステレオタイプに流れず原作を誠実に受け止めた脚本を中心に、皆がそれぞれベストを尽くした結果が「いい」のであって、できあがった「あんな感じ」を真似るのではなく、そういう制作者たちの姿勢こそ真似て欲しいなあ、と思う。どちらも、そう扱われるべき原作のはずだ。

2014年

8月

29日

すべてがfになる

ダイエットをしている。

友人たちには何度めかと呆れられそうだが、とにかくダイエット中である。


健康診断の帰り道、保険センターで体脂肪率を計る機械にうっかり乗ってしまった。


体型や年齢の話は難しい。「太った」と言えば自分より重い人にキレられ、「老けた」と言えば年上の人にキレられる。しかし太るの老けるのもあくまで本人の中での比較の問題だ。

ハタチだって、本人がおばさんだと言えばおばさんなのだ。体重だって、それが何キロだろうと、オーバーウェイトとみなすのは本人次第だ。

逆に、何キロだろうと何歳だろうと、「まだまだイケる」と思いこんでしまうこともある。

しかし、体脂肪率は客観的な数字だ。自分の体の何割が脂肪でできているかがはっきりわかってしまう。相当な精神的ダメージである。

何度も何度もダイエットらしきものを決意して、最近ようやくわかったことがある。ダイエットとは、知ることだ。ランダムな知識を詰め込むのではなく、体の状態をつぶさに理解すること。

体脂肪率は何パーセントか、基礎代謝量は何キロカロリーか、何を、一日に何グラム食べるべきか、どんな運動をどのくらいの頻度で何時間するか。すべてに、その時々の正解がある。それらを把握しなければ、健康的に痩せるのは不可能だ。


とはいえ、去年あたりまでは食べなきゃ痩せた。

もちろん、暴飲暴食すれば太ったが、どんな状態からであろうと、普通に生活すれば適正体重に戻っていった。だからダイエットとは、「漠然と食べるのを我慢する」ことだった。

でも今はそうじゃない。食べなければ代謝が落ちて脂肪がつくし、運動しなければ筋肉が落ちて脂肪がつく。すべてがfになるとはこのことである。

今までそうならなかったのは、若さが代謝量と筋肉量を勝手に維持してくれたからだったのだ。そして、その件に関して言えば、私は既に若さを使い果たしたらしい。


そういうわけで、ホームズが運動のための運動はしてないというのは、ワトスンの勘違いだと思う。ワトスンが見てないだけで、寝室でこっそりロングブレスダイエットとかやってたはずだ。サー・イアンにはぜひその辺の事情を赤裸々に演じていただきたい。

2014年

8月

23日

人形劇「シャーロックホームズ」は、ちゃんとホームズだ

人形劇「シャーロックホームズ」がすごく面白かった。

面白かった、だけでは終わらず、録画して何度も観てしまうほど、好きになった。

人形が演じ、学園ものに変換されているにも関わらず、「ちゃんとホームズ」だからではないか、と思う。

 

15歳の少年に設定された人形を「ちゃんとホームズ」と感じる理由を一言でいうと、「リア充じゃない」ことではないだろうか。リア充といってもさまざまな定義があるのだろうが、ここでは「コミュニケーション力があり、人付き合いに長けた」人物としておきたい。

私がホームズに出会ったのは、小学校の図書館だった。

同級生の大多数がケイドロやらドッジボールやらに興じる休み時間、一人で毒々しい表紙の本をめくっている小学生はなるほどリア充とは程遠いが、そういうことだけでもない。

一人で物語の世界に没頭する時、人は皆、社会生活から切り離される。一人ぼっちで、未知の世界に放り込まれる。だから、「非リア充」として物語の登場人物と出会う。自意識が確立していない子どもは、特にそうなのではないだろうか。クラスではジャイアンや出木杉くんの立場にいる子も、のび太に感情移入できる。

物語の世界の中にも、現実世界と同様にリア充も非リア充もいるが、ホームズとワトスンは絶対に「クラスの中心的存在」ではない。そこは、子どもの少ない社会経験においても重要なポイントだ。微妙なポジションで生きる子どもを、人形が人間以上に繊細に表現している。

 

そして「ホームズ」は、影の世界の物語だ。主人公二人はどちらも孤独だし、依頼人たちはもれなく困って、弱って、人生の暗い時を生きている。

しかし、影の世界にも冒険があり、笑いがあり、友情がある。

子どもたちの求めるものは、光のあたる教室や運動場にはない。授業中の静かな保健室、何年も使われていない部室、立ち入り禁止の区域、忘れられた飼育小屋。そして、子どもたち自身が主人であり王である、「寮の二人部屋」としての221B。

役者も舞台も、非の打ちどころなく「ちゃんとホームズ」なのだ。

 

三谷幸喜脚本ならではの、温かですっとぼけたユーモアも大好きだ。

個人的に嬉しかったのは、「まだらの紐の冒険」でロイロットにしらをきるホームズが「寒いとね、クロッカスが綺麗に咲くらしいよ」と言うところ。

ここは原作にまったく忠実なのだが、子ども時代の私が声を上げて笑った箇所だ。

私が生まれるずっと前に、ホームズという作品への言及はシャーロッキアーナという学問に昇華されてしまったが、ここは「『緋色の研究』で園芸に興味を持たないと書かれたはずの彼がどうのこうの」ではなく、単純に「ツッコミ待ちだ」と思っている。三谷幸喜に拾ってもらえて嬉しい。

できれば「赤い輪」で新聞広告を探すホームズの「 『日ごとわが心は君を思いこがれ……』何をたわけたことを!」という一人ツッコミも使ってもらいたい。焦って道具を見つけられず、ポケットからガラクタを出してはポイポイ投げるドラえもんにそっくりで、この場面もかなり笑った。

 


2014年

8月

14日

私の思い出のマーニー

盆休みも中盤。アパートの駐車場に出たら、近所の小学生に、出会い頭にいきなり「思い出のマーニー」のオチを言われた。

お母さんが「それは『ネタバレ』といって、たいへんいけないことなのだ」と叱っていたのが少し面白かったが、原作未読の私としてはこれ以上ネタバレされないうちに観たほうがよさそうなので、その足でレイトショーに行くことにした。

 

私はなぜか壮大な話が苦手な子供で、どんな映画が好きか、と聞かれると、「なるべく何も起こらない話がいい」と答えて大人を困らせていた。特に、映画の面白さは劇中の爆発の規模に比例すると思っている父は、娘の嗜好の掴みどころのなさに困惑したらしい。

具体的に言うと、ジブリ映画では『ナウシカ』や『もののけ姫』よりも『トトロ』や『魔女の宅急便』が好きだ。

『マーニー』は、何も起こらないけれど、主人公から見える世界の何もかもが変わる話だ。たぶん、杏奈と同じ世代の子供の多くが、こういう劇的な世界の変化を待っている。

杏奈は悩んでいる。冒頭でいきなり鉛筆をへし折るくらいイライラしてる。ナイフみたいにとがっては触るもの皆傷つけた、とはこういう状態だ。

何もしなくては何も変わらない、だから行動しなさい、と行動できる人はいう。でも、行動できない人は、動けないから悩んでいるのだ。それでいいと思う。悩んでいるだけでも、頭の中では次々に変化が起こる。空に嵐が来て晴れるみたいに、海に潮が引いて満ちるみたいに。ちゃんと、自分の世界は動く。何もしないでぐだぐだ考えているのは、苦しいけれど、決して無駄な時間ではない。

悩むのはやめて、とか、あなたはひとりじゃないよ、と言ってくれる人はいたほうがいい。でも、一人きりで思う存分悩むのも、必要なことだ。

これは私の解釈だけれど、助けやきっかけを与えてもらったにしても、杏奈は一人でちゃんと悩み終えたんだと思う。

 

ところで、夜10時を過ぎると映画館が入っているショッピングモールが閉まってしまう。開放されている出口はひとつしかないので、反対側の駐車場を利用した場合、巨大な建物をまくように半周歩かなくてはならない。カップル客ならそれも良かろうが、女一人客は舌打ちしたくなる。

カップルの皆さんの邪魔をしないように、かつ、これからご出勤と思われる暴走族の皆さんになるべく近寄らないように、結構な距離をウォーキングして駐車場に戻ると、私のほかにもう一人いた女一人客が、なぜか前を歩いていた。

彼女が私のマーニーだと思う。たぶんイオンモールから離れられないと思うので、声はかけなかった。以上が今年の私の夏の思い出である。

 

2014年

8月

12日

スプーンおばさんの女子力

NHKで朝放送している「あさイチ」という情報番組がある。昨夜「夜だけど…あさイチ」として放映されたので、なんとなく観ていたら、「家庭内別居」というディープなテーマだった。

 

まともに話を聞いてもらえず、人間としての尊厳を失っていく奥さん。

仕事だけでも辛いのに家でも安らげず、居場所を失っていく旦那さん。

私は独身なので、どちらの言い分も一理あるように感じて、観ていて2人分辛い。さらに、そんな環境で暮らさなければならない子供の気持ちを思うと3人分辛い(いずれも、1人分が当事者の何億分の一ではあると思うけれど)。そりゃ別れた方がいいだろうよ、所詮別々の人間なんだから、我慢なしで快適に生きてこうなんて無理なんだよ、もう皆別れちゃえよ、と世知辛い気持ちになっていたところで、今日群馬テレビで、アニメ「小さなスプーンおばさん」第一話の再放映を見た。

 

スプーンおばさんは、頭が固くて怒りっぽいご亭主と暮らしている。

洗濯中突然小さくなって、洗濯ものの下じきになってしまう。

おじさんは、妻が小さくなったことに気づかず、突然いなくなったことにぷりぷりしながら仕事に出かけてしまう。小さくなったおばさんは必死で洗濯ものの下から出てくるが、第一声が「たいへん、これじゃお洗濯できないわあ~」である。

夫の無理解とか家事労働の理不尽とか、そこにはない。いや、あるかもしれないんだけど、おばさんにそういう発想がないので、存在しないことになる。

結局おばさんは、動物たちの力を借りて(小さくなると動物と話ができる。こちらも結構なミラクルだが、おばさんは『あんた私の話がわかるのね。ちょうどいいからこのかごを押してちょうだい』とあくまで洗濯最優先)、洗濯を完遂する。

 

おばさんは、時々小さくなるという事実をおじさんに隠している。

その理由を私は知らなかったのだが、「あの人は気が小さいから、小さくなった私を見たら腰を抜かしちまうわ」と言ったきりだった。

結局、病院にも行かず、警察にも知らせず、ダンナにも相談せず、「今日はいろいろあって楽しかったわ~」で第一話は終わる。

 

おじさんは、休みの日に1人で釣りに行ってしまったり、むっつりして朝ご飯を食べなかったり、なかなか家庭内別居の素質がある感じなんだが、おばさんは一切気にしない。

いつ小さくなるかわからないというリスクを抱えながらも、おじさんの失くした帽子を探してあげたり、好物のジャムを作ってあげるために野イチゴを摘みにいったりするのだが、全然「夫のために割を食ってる」感じがしない。

勝手に行動して、勝手にトラブルを起こして、勝手に解決する。

一話につき確実に二~三度は死の淵に立たされてる気がするが、最後はいつも「今日も一日楽しかった!」で終わる。

 

何というかもう、ダンナどうこうではなく、人間として強いのである。言い換えると視野が狭くて自分勝手で鈍感なのかもしれないが、とにかく強いのだ。

そして、ダンナとして一切いいとこがなさそうなおじさんは、なんだか可愛い。

おばさんには「大きな赤ちゃん」などと言われているが、おじさんはおじさんで、この奥さんにはわかってもらえないような繊細さや神経質さがあると思う。細かいことはわからないが、引きでみると、頑固な亭主と陽気な奥さんで「お似合いの夫婦」だ。

 

漫画と一緒にするな、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、私は漫画の登場人物にも、見えていないところに細かい心の動きがあるはずだと思うし、逆に、細かく色々と考えてしまう現実の人間が、自分や周りの人々を、漫画のキャラクターを見るように「引きで」見ることも時々役に立つんじゃないかと思う。

私は人に厳しく自分に甘いし、邪推してしまうし、重箱の隅をつつく癖があるし、すぐに『あっちの道の方が良かったんじゃないか』と後悔したりするから、もし結婚したら、家庭内別居や離婚の種を山のように見つけてしまうんだろう。

そういう自分との付き合いもいい加減長いので、今更否定したいわけではないけれど、スプーンおばさんみたいに、なんだかよくわからないけど一日楽しかったわ~とさばさば言えるような私もいると、もっといいと思う。

 

そういえば、私は原作も愛読していた。(例によって図書館で読んだので記憶違いかもしれないが、原作のおじさんはおばさんが小さくなることを知っていたと思う。アニメも後半はそうだったかもしれない)

小学生の頃の記憶だが、唯一はっきり覚えているのが、おばさんを怒らせたおじさんが、「冷たい魚だんごとジャガイモの皮」しか食べさせてもらえない、というくだりだ。

冷たい魚だんごがどんな料理なのか、未だに気になっている。ジャガイモの皮に関しては、おじさんのために誤訳であってほしいと祈りたい。

何の話だかわからなくなったが、まあスプーンおばさん夫婦にも色々あるのだ。多分。

 

2014年

8月

02日

京都の猫

鴨川沿いのホテルに宿泊。蝉時雨で目がさめる。

ホテルの朝食をしっかりいただいて、鴨川をちょっと散歩。

部屋に戻ってだらだらとワイドショーを観てからチェックアウト。

荷物を預けて、さまざまな路地をてくてく歩く。

Rさんは猫のように、たくさんの小さな道を知っている。私は京都には何度か来ているけれど、団体旅行が多かったので、こうして自分の足で歩くと、車で巡ったお寺や神社の間を線でつないでいるような気持ちになる。地元のRさんにもそういう感覚があるらしく、何度か「ああ、わかった」と呟いていた。

地元は車社会なので、おいしいものや綺麗なものに次々と出くわせる街を歩くのは、とても楽しい。いよいよ疲れたら、いつでもバスやタクシーに乗れるのもいい。ホームズが歩いたロンドンも、こういう感じだろうか。

気が付くと、おいしいパンをたくさん持たされて、子猫が親猫に咥えられるようにして新幹線に乗せられていた。

 

2014年

8月

01日

喫茶店めぐり

日頃コーヒーばかり飲んでいるが、Rさんには日本茶カフェや紅茶専門店にも連れて行っていただいた。

 

日本茶は、丁寧に淹れてその味を全部引き出すと、すごくうま味が強いのだと知った。舌の両側でうま味を強く感じる気がしたのだが、調べてみたら舌の上で味覚を感じる場所が分かれているわけではないらしい。錯覚か。

それにしても旅の途中に煎茶と和菓子はいい。胃がもたれず、頭がしゃっきりする感じ。お菓子は、ご主人が日本全国からお取り寄せした7~8品から選べて楽しい。柑橘類の皮の入った、きれいな緑の羊羹を選んだ。

ソファがいくつかあるだけのそっけないインテリアだけど、とても落ち着く。ソファはほとんど窓に向いていて、お店はひんやりと静か。近所のお店の人がひっきりなしに現れては、お茶を味わって、置いてある本をめくったり、目を閉じたりして一息ついていた。

 

ムレスナでは、本当に驚いた。

アイスミルクティーが一杯1500円くらいするけれど、ケチではないがコストパフォーマンスにやたら厳しいRさんが納得していることに納得。これ一杯に、ケーキと紅茶のセット3つ分くらいのおいしさが入っている。何でも、普通の紅茶3杯分くらいの茶葉を使っているらしい。

紅茶の苦みや渋み、ミルクの臭みなどのマイナス要素を取り除いて、香り、こく、甘みなどいいところだけ凝縮したような、奇跡の一杯。

紅茶にこだわる人は、果物などの香りがついているフレーバーティーをあまり好まないと思う。それに、アイスティーじゃなくて香りが出やすいホットを選ぶんじゃないだろうか。

Rさんもホットミルクティーを薦めようとしていたのだけど、お店のお兄さんは控えめに、しかし断固としてアイスミルクティーを飲ませたがっていた。メニューにアイスミルクティーは一種類しかなかったが、お兄さんは私たちとの会話の中で、好みはもちろん、暑い中を荷物を持って歩いてきたこととか、旅行の二日目であることとか、普段はコーヒーが好きなこととか、周到に聞き出して、Rさんにはキャラメル、私には苺の風味のついた紅茶でアイスミルクティーを作ってくれた。

これが、飛び上がるほどおいしかった。交換して飲んでもやっぱりおいしかったけど、最後はやっぱりそれぞれ自分のものに落ち着いた。問診には意味があったのだ。

アイスミルクティーにはホットティーがついてくる、という変なシステムで、最初は首を傾げたが、大きなカップが渡されて、お店の人が次々に色々なフレーバーを試させてくれる。すべての紅茶に、開発した時の苦労話とか、意外な飲み方とか、物語があるのだった。

あたたかく、薫り高い紅茶を何杯も試して、話に夢中になっている間も、アイスティーのおいしさは入っている氷に全然負けない。

 

人を静かな気持ちにさせる店も饒舌にさせる店もあるが、お店の人に、お客さんに対する思いやりのようなものを感じると、どっちでも居心地がいい。よく来たね、おいしいお茶を淹れてあげるから、楽しんでいってね、という顔をした人に迎えてもらえるのは、しみじみありがたい。

Rさんはすべて心得ていて、お店の人の気持ちを潰さないようにしている。お金を払ったんだからお客なんだ、と言わんばかりの態度はとらない。へつらったりはしないけど、傲慢でも事務的でもない。してはいけないような状況で何時間も長居したり、お店の雰囲気を壊すような声で話したりもしない。ちゃんと、お客さんの役割を演じているから、お店の人も気持ちよくお店の人の役割を全うしてくれる。


ドラマで見るバーや居酒屋さんでは、お客さんが本音をむき出しにして騒いだり、酔いつぶれる場面がよく描かれるけれど、私はそういう気の置けない人間関係を築くのが苦手で、ちょっとコンプレックスを感じていた。

気が小さいせいか、変に気を廻してしまい、くつろいでね、と言われても心からはくつろげない。世の中に使う人と使われる人がいるとしたら、私はとことん、使用人側の人間なんだと思う。同席した人が頼んだものを食べなかったり(居酒屋ではよくある)、大声でお店への不満を口にしたりすると冷や冷やして、お店の人の視線を気にしている。

いつか私もオープンマインドでお店の人に甘えられるようになるのかもしれないが、遠い未来の話になりそうだ。今は、Rさんとお店の人の距離感をかっこいいと感じる。

 

 

 


2014年

7月

31日

関西へ

早起きして、東海道新幹線に乗った。

空がぱっきりと青い。雲が流れている。

京都に近づくと山が多くなってきて、雲が濃い影を落としている。ものすごく暑そうだ。

後ほど、シッター役を引き受けてくださったRさんと落ち合うことになっている。Rさんは、大阪、兵庫、京都あたりのカフェにすごく詳しい。今日は、かねてから行ってみたい、とお願いしていた梅田の「ペンネンネネム」と、Rさんお勧めの淀屋橋「オフィシナ・デル・カフェ」に連れて行っていただく。

どちらも、隅々までこだわりがつまったお店だ。

Rさんも私も、今は飲食業とはまったく関係ない仕事をしているけれど、「お茶を飲む店」がすごく好きだ。

もちろん、外で食事するのも好きだけれど、ごはんを食べる店が味に重きを置きがちなのに対して、お茶を飲む店は椅子やテーブル、壁の色、ちょっとした飾りなんかにもこだわりや誇りが感じられることが多く、それを覗き見るのが楽しい。

おいしければ汚い店でもいい、という人もいるけれど、お店にいる間は味覚や嗅覚だけじゃなく視覚、聴覚、触覚も働いているので、汚れていたり、テーブルがべたべたしてたり、店員同士大声で喋っていたりする店は、味にも集中できなくて私はちょっと苦手だ。「猥雑な雰囲気を楽しむ」という心構えさえできていれば、それはそれで良いものだが。

一時、感覚を全部預けるという意味で、本を読んだり映画や演劇を観たりすることと、誰かが演出した空間に身を委ねるのは似ている。

Rさんは印刷や製本を工夫した同人誌を作っていらっしゃって、私はRさんがデザインした本や雑貨がすごく好きだ。だから、Rさんが選んでくださったお店を訪ねるのは、私にとっては何重にも贅沢なこと。

時間が許せば、Rさん愛用の印刷所や紙のお店もちょっとだけ覗かせていただく。楽しみ。

 

2016年

9月

28日

「しない」ことで描く幸せ

2016年前半は、旅行で国際線に乗ったこともあり、私にしては比較的多くの新作映画を観たのだが、ダントツに幸福な気持ちになれた映画はリブート版『ゴーストバスターズ』だった。

(ちなみに鬱々とした映画は『ロブスター』な。アレほぼ現実だからな、私にとっては)

 

前作との比較や女性映画としての分析にもすごく興味があるので、今後ネットで感想を漁りまくる所存だが、この胸熱が冷めないうちに、「どうしてこんなに幸せになれるんだろう」という気持ちを綴っておきたい。

実は、「そんなこと描くんだ!」よりむしろ「そこ描かないんだ!」ということに感動してしまった。

 

1.恋愛しない

この作品の宣伝が始まった時、なんかこう、「仕事に恋に頑張るワタシ」みたいなのを想像してた(そういう映画も好きです)。

「地味なオタクだった私が、頑張ることでキレイになれました」「恋愛なんて興味なかったけど、わかってくれる男性もいる」みたいな。「いくつになっても、オンナであることを諦めちゃダメ」みたいな。伝わるだろうか、このカタカナ遣いも含めて。

 

だって日本版公式Twitterのプロフィールが「オトコには弱いけど、オバケには強い理系女子が起業した……」だよ。

そりゃ彼女たちが「オトコには弱い」だろうな、とは容易に想像できる。オトコどころか対人関係全般ダメそうだ。

非リア充として、彼女たちのスタイリング、すごい生々しいと思う。

地味な者(でもカワイイ物好きで、長靴なんかはカラフルなの履いちゃう)、あまり構わない者、世間一般の支持するところの斜め上に突き抜けてく者。

いずれも「モテ」からは遠い。私の服装歴見てたのか、と言いたい(※全部やって現在アビー)。

そうやって「見てわかる作り」になっているものの、この映画は彼女たちに恋愛コンプレックスを語らせない。今彼女たちが直面しているもの、考えていることは、それじゃないからだ。あとエリン、お前のそれただのセクハラオヤジだが、めっちゃ共感するぞ。

 

2.リア充にならない

 この映画の主要登場人物は何かしらのオタクばかりだが、色々な意味で多数派に迎合しない(できない)ゆえに、彼ら彼女らが受けてきた「いじめ」がストーリー全体の前提となっている。

同じように「世界」から弾かれていたローワンとそんなに変わらない状況下で生きてきたろうに、自然に「世界が危ないから救おう」と考えるバスターズと彼との違いってなんだろう。何か決定的な要因がありそうなのだが、少なくとも映画の中では、それも描かれない。

それもいいかと思う。迷子の小動物を救おうと奔走するオタクも、自らの承認欲求に苦しむオタクもいるし、この二つの感情は一人の人間の中に同居すると、私たちは現実世界を通して知っている。

オタクは、世界を滅ぼすパワーも救うパワーも持っている。その一方で、市長たちのように「表世界」でバランスをとる役だって必要だ。この映画は誰も否定しない。

 

3.人に要求しない

「否定しない」といえば男性秘書(?)のケヴィンだ。

ケヴィンの強烈過ぎるおバカキャラは、長年かけて築かれてきた「可愛いだけのブロンド娘」像に対抗するために必要だったのだろう。でも、彼はその役割のためだけにいるんじゃない。

ケヴィンの美点は、主人公たちを品定めしたり否定したりという発想を一切持たないところだ。この作品が発表されて以来、新生バスターズが女性であることや、彼女らの年齢・容姿へのバッシングが後を絶たないらしいが、そういう人たちの対極に彼はいる。

ゴースト・バスターズの面々やローワンは「キモヲタ」で彼は「イケメン」だが、自分や誰かを社会の価値観と比較してどうこう、という発想が誰よりも薄い(ていうか、ない)のがケヴィンだ。私だって他人を品定めするので自省も踏まえて言うが、これって、すごいことだ。バスターズが「大好きだからケヴィンを助けたいんだ」と言うのには、ちゃんと理由がある。

 

そう、人間には「好きになる」という力がある。

エリンもアビーもホルツマンもパティも、(下ネタも言うしセクハラもするけど)純粋な愛情に溢れた女の子たちだ。その対象がおバカでもいい。男性でなくたっていい。自分の子どもでなくたっていい。人間でなくたって、別にいい。

エリンの変化がそう教えてくれる。彼女の仕事や仲間への思いが高まるのに反比例して、自分の正しさを証明したい、社会に肯定して欲しいという思いが薄くなっていくのが見てとれる。最後に残るのは、ただ「やりたい」「やった」「できた」というシンプルな喜びだ。

やりたい仕事がある。下ネタ……もとい本音を交わせる仲間がいる。多分、それだけで十分幸せなのだ。ワンタンの数は譲れないけど。

 

幸せとは、自分の力を思いっきり注げる「何か」があること。

その「何か」を変に限定しようとする価値観を、自分がいかに内面化してしまっていたかを痛感している。

オンナだったら、恋するべきだ。

オタクだったら、リア充に引け目を感じるべきだ。

オトコだったら、常に女の上をいくべきだ。

安定した仕事に就き、誰からも肯定され、認められて生きるべきだ。

『ゴーストバスターズ』は、そういう窮屈から私を解放してくれる。

 

 

私は、女も男も、リア充もオタクも、否定したくない。恋愛することもしないことも、否定したくない。恋と仕事を両立するのはもちろん素敵だけど、しなくたっていいのだ。

他人の評価から自由になって、自分で選んだ「何か」を思いっきり愛することができたら、きっと幸せだ。ローワンですら、彼を蔑んでひそひそしていた周りの人たちよりずっと楽しそうに生きていたと私は思う。エンディングのクリヘムダンス、あれケヴィンじゃなくてローワンだもんね。

 

ただ、ローワンには「愛」が欠けていた。

登場人物のトラウマを過剰に描写しない、必要以上に自分語りさせないのもこの映画のいいところだが、最後の最後に「愛について」熱弁するのがホルツマン、ていうとこが痺れる。

そしてラストシーン、彼女たちへ「世界」からの心温まるプレゼントがあるのがまた粋だ。オトコにではなく、誰かに押し付けられた物差しにでもなく、でも確かに「世界」に向けられている彼女たちの愛情は、決して片思いじゃない。

 

2016年

4月

30日

みんなが持ち場を守ること

『アイヒマン・ショー』を観た。

「興味あるけど、ホロコーストの資料映像を含んでいると聞いたので、観る勇気が出ない」と言う友人がいるので、感想は彼に向けて書きたいと思う。

 

強制収容所のショッキングな写真や映像が出てくるが、この映画はホロコーストそのものを描いているわけではない。直接描かれているのは、かつてホロコーストに関わった人々と、その周縁に点在する人々だ。

周縁と書いたが、円の中心にいるアイヒマンが真っ黒な存在で、そこを起点に少しずつ白くなっていくようなグラデーションが描かれるわけではない。

 

法の定義は置いておくとして、ある出来事に関わった人々のうち、誰までを当事者と呼べるだろう。裁判を報道することに道義的責任を感じる一方で、視聴率稼ぎの「ショー」とも捉えているプロデューサー。アイヒマンの感情を暴き出すことに固執する監督。『ガガーリンの方が面白い』と笑い飛ばした後で、被害者の証言に打ちのめされる視聴者もいた。その背後には、生存者の体験を信じずに傷つけた、大勢の人々がいた。彼らはホロコーストとまるきり無縁と、いえるだろうか。

 

友人に向けての、私なりの結論を書くと、この映画は怖い。

加害者への憎悪や、被害者への同情を煽ることはない。しかし、裁判を見ている善でも悪でもない人々を描くことで、それをまた見ている「実在の」私たちもその延長線上にいる、つまり、黒ではないにしても白でもないことを、思い知らせてくる。

だからこそ、終盤に現れる「実在の」生存者の証言や死体の山の写真は、怖い。それは、スクリーンの向こう側にいる演技者たちではなく、こちら側の世界の私たちに起こった……だけでなく、私たちに起こるかもしれない、私たちが起こすかもしれない出来事だと、この映画は言っているのだ。

 

この世界に起こるすべてのことにおいて、私たちは加害者であり、被害者だ。当事者であり、傍観者だ。だから世界は混沌としていて、怖い。自分だけは正しいと、そしてその正しさは崩れないと、大丈夫だと、私たちは思いたいのに。

監督のレオは、アイヒマンの人間的な表情を捉えることで、彼なりの納得を見出そうとする。私たちは、ハンナ・アーレントの見解やミルグラム実験に納得を見出そうとする。

納得は救いだ。劇中で強く言い放たれる"learn"という言葉。人間は過去の過ちに学ぶことができる。もうへまはしない。だから希望はある。そう信じることにしか、救いはない。

レオつながりというわけではないが、レオ・レオニの『スイミー』という童話の一節を、私は思い出す。

 

スイミーは言った。 

「出てこいよ。みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ。」 

小さな赤い魚たちは、答えた。 

「だめだよ。大きな魚に食べられてしまうよ。」 

「だけど、いつまでもそこにじっといるわけにはいかないよ。なんとか考えなくちゃ。」 

スイミーは考えた。いろいろ考えた。うんと考えた。 

それから、とつぜん、スイミーはさけんだ。 

「そうだ。みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして。」

スイミーは教えた。けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もち場をまもること。 (レオ・レオニ『スイミー~ちいさなかしこいさかなのはなし』谷川俊太郎訳)

 

結局のところ私たちも、生まれ落ちた、または流れ着いた環境で、そこで得た知識と体を使って、自分の持ち場を見つけて守っていくしかない。プロデューサーとして、監督として、カメラマンとして。

妻として、息子として、娘として。ホテルの女主人として、絨毯売りとして、コーヒー屋として。

時に加害者として、時に被害者として。

そして、考える。いろいろ考える。うんと考える。過去の人達が行ってきた選択を思いながら、私たちも人間としての選択をする。

それでもいつか、大きなものに飲み込まれてしまうかもしれない。

浮き輪のようにアーレントの本を抱えていても、彼女のように強くはいられないかもしれない。でも、考えたことに、学んだことに、少しは救われる。ギリギリのところで、きっと。

 

私には、この映画の登場人物すべてが、大きな魚が通りすぎた世界をふらふらと泳ぎだした、小さな魚たちに見える。

あえて、大きな魚の姿は描かれない。だから、水槽の外の小さな魚である私たちは、自分たちのいる水槽に、静かに思いを馳せる。そういう映画だと思う。

 

 

 

 

 

2016年

4月

03日

これでいいのか?

大ヒットした深夜アニメ、『おそ松さん』最終話の評価が分かれている。

(『おそ松さん』という作品自体については放映中にも記事を書いたので、よろしければご参照ください→過去記事:『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松さん』は『空飛ぶモンティ・パイソン』のように、短い話をつなげた構成で、個々のエピソードは基本的にリセットされる。キャラクターが骨だけになってしまったり、結婚したりしても、次のエピソードではちゃんと通常の状態に戻っている。

ただ、キャラクターの「意識」は過去のエピソードの記憶を保っているので、死んだり結婚したりしたことも全く別次元の話ではないらしい(この漠然としたつながりも、パイソンっぽい)。

その不確かな連続性の中で、キャラクターのちょっとした成長や関係性の変遷が、繊細に描かれている。特に、四男の次男に対する複雑な感情の描写はさりげなくも丁寧だ。表向きはあくまでギャグアニメの枠を出ないが、ひそかな連続性のおかげで、二人の関係の変化がわかる。「裏(描かれなかった時間の中)で何が起こっているか」に思いを馳せずにはいられない。私も「萌えた」。

 

しかしこの連続性は腐女子のためだけのものではない。六つ子のニート生活がお気楽に描かれる中で、それぞれが「これでいいのか?」という意識を持っていることが、うっすらわかるようになっているのだ。

最終回の1話前にあたる第24話は、その「これでいいのかパート」を総括するような内容だった。

ただ一人、就職活動を続けながら自らの意識と向き合っていた(その行動がギャグとして茶化されていた)三男の就職が決まり、それを契機に弟5人の自立への決意と、心を閉ざしてみせる長男の様子が切なく描かれる。そのまま最終回までの一週間、「私たち」(あえて『腐女子』と括らない。六つ子を見守ってきた人々には色々な人がいる)は、踊りに踊らされた。

もう、六つ子が何をやっても可愛いというか、とにかく泣かせたくないというか、むしろ私が養いたいというか、そういう精神状態に持って行かれているのだ。そりゃ騒ぐ。

そしてついに訪れた最終回は、前回のシリアス展開を開始後1分でひっくり返す、ハチャメチャなストーリーだった。なんだかよくわからない始まりで、やけのようにギャグを連発しまくり、なんだかよくわからない結末を迎えた。

そういう展開の中でも、かつて退場したキャラをちらりと出したり、1期と2期をリミックスしたエンディング曲でお別れするなどのサービスでずっと観てきたファンの「労に報いた」点は見事だったと思うが、ストーリーそのものへの評価は分かれる。

ストーリーテラーとしての製作者は、「これでいいのかパート」の回収を放棄している。広げた風呂敷をたためなかった、と受け取る人は納得行かないはずだ。

擁護する人ももちろんいる。「少なくとも六つ子が別離を迎えずに済んだ」ので喜んでいる人は多いと思うし、もともと『おそ松さん』はナンセンスなギャグアニメとしての骨組みを持っている。2クール目の初めで「自己責任アニメ」と言い出したあたりで、「終わり方」は意識されていたのだろう。

いいか悪いかの議論なら、「これでいいのだ」という赤塚イズムを持ちだされた時点で、「これでいいのか」派は屈服するしかないのだ。

 

だから、私はあえて「これでいいのか」派として物を言わせてもらいたい(本音では、六つ子ちゃん可愛いでちゅね~、もう何でもいいんでちゅよ~、と思考停止していることも否定しないが)。

「これでいいのだ」は『天才バカボン』のバカボンのパパの決め台詞だが、そもそもどんな文脈で使われるのが正しいのだろうか。

 

原作『おそ松くん』を描く上で、赤塚不二夫はさまざまな表現に挑戦してきた。

赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ!」でいくつかのエピソードが紹介されているが、ナンセンスギャグが苦手な私でも「面白そう」と思ってしまう。名画や小説を下敷きにしたストーリー、緊張感溢れるコマ運び、感動を呼び起こすために計算された構図。

笑いというのは、一旦徹底的に構築された世界を崩すことでしか極められないものなのだろう。

公式サイトを閲覧するだけで赤塚不二夫の世界が理解できるとは思わない。もっと、漫画そのものに触れる必要があるだろうし、漫画家本人の人生を知るための資料にもあたらねばなるまいが、現時点での私の理解では、赤塚世界とは、「これでいいのか?(社会に直接訴えかけるシリアスな問題提起や、繊細な感情表現」と「これでいいのだ(現実の不条理を知った上で、すべて受け容れる、はちゃめちゃで大らかな世界」が何層にも積み重なった、ミルフィーユのようなものだ。

『おそ松さん』スタッフは、そのミルフィーユを丁寧においしく積み上げることで、赤塚世界に敬意を払ってきた。でも、24話から最終話の流れでは、「これでいいのだ」を、「これでいいのか」からの帰結ではなく、自らのストーリーテリング能力不足を隠すための免罪符として使っているように見える。綺麗に仕上げるべき「一番上の層」でそれをやってしまったことが、「これでいいのか」派が一番ひっかかっている点ではないだろうか。

私たちは『おそ松さん』スタッフを優秀な菓子職人として信頼してきた。

でも、表面にどんな飾りつけをして終えても、見た目の好みは分かれるだろう。だからこそ、味で勝負して欲しいのだ。

 

しかし、この「事変」はいかに彼らが私たちの心を揺さぶることができるかという証明になった(ひょっとしたら計算づくだったのかもしれない。そう疑ってしまうほど、『おそ松さん』スタッフには余力をうかがわせる何かがある)。きっと、2期からは安心して、よりファンを信頼した上で、さらにおいしいお菓子を作ってくれるだろう。貪欲に、期待していたい。

2016年

4月

02日

優しい嘘

『Mr.ホームズ』は家の近くで上映していなかったため、朝から電車に乗って新宿に出向いた。

うらうらと、暖かい春の日だった。アパートを出たら、外で遊んでいた子どもたちが、手折ったたんぽぽをくれた。畑で働いていた人が、両手いっぱいに抱えるほどの菜の花を分けてくれた。急ぐ必要はなかったので、一旦家に戻り、コートを着たままたんぽぽをコップにさして、菜の花をゆでた。

ひどく、のんびりした気分になっていた。頭のどこかにいつもあるはずの苛立ちや焦りは、とろんとした眠気に包まれて、ずいぶんと遠く感じた。いつか年をとって、仕事や色々なことを辞めたらこんな感じかもしれないなと、ふと思う。

春眠暁を覚えず、という言葉をいつか習ったけれど、子供の頃は春に眠いと思ったことがなかった。田舎で育ったせいか、体はいつも周りの自然と連動していて、春になればうずうずと何かをしたくなり、夏には一層その気持ちがつのり、秋になるとすこし落ち着いて、冬はすぐに眠くなった。

動植物が息づくのに抗うように動きが鈍くなるのは、たぶん私の体が、生のピークに向かうのでなく、死に向かう下降線を辿り始めたからなのだ。

 

映画は、そんな春の日とつながっているかのようだった。

「ホームズ映画」といえば、薄暗い霧のベーカー街、キビキビと走り回る名探偵だが、『Mr.ホームズ』は、陽光と美しい花々に彩られている。私達の知るホームズには、そんなものは似合わなかったはずだ。それが、うっすらと悲しい。

みっちょんさんこと関矢悦子さんは、この映画を「ホームズ、ウメザキ、アンの三人が持っている『悲しみと喪失感と孤独』に対して、三者三様の安らぎ(救済)を得られるストーリー」と評された。

私達の知るホームズは、いつも人を救う側の人だった。その行為によって、彼は彼自身をも救っていた(仕事でも家事でも子育てでも、人の営みにはそういう側面があると私は信じる)。

でも、93歳の彼は体も頭も鈍っていて、もう、探偵として人を救うことはできない。名探偵という肩書はすでに虚しく、彼はただの「ホームズ」だ。そうなってしまった人間は、もう救われないのだろうか。人生の終わりに待っているものとは、悲しみと喪失感と孤独だけなのだろうか?

 

知性という武器を失ったホームズは、「新しいやり方」でウメザキを救おうとする。

そのやり方を使っていたのは、今はもういない相棒のワトスンだ。

ワトスンの書く物語はいつだって曖昧だ。真実という分子は、とろんとした嘘にくるまれて、時にかたちが見えなくなる。ホームズは、ワトスンのそんな姿勢を批判してきた。

ホームズだって上手に「嘘」を使うし、茶目っ気や気遣いがないわけではない。おそらく、自分が導き出した真実よりも、読者の興味や誰かを慮るための嘘を重んじる親友に、ちょっと拗ねてみせる気持ちもあったのだろう。『白面の兵士』という隠遁後のホームズ自ら筆を執った作品では、ホームズはそんな自分を少し反省しているようだ。

 

「じゃ自分で書いてみたまえ、ホームズ君」こう反撃されてペンはとったものの、書くとなるとやはりできるだけ読者に興味を与えるようにしなければならないということに、いまさら気のついたことを告白せざるを得ないのである。(『白面の兵士』延原謙訳)

 

実際の出来事を書く場合でも、読者を楽しませる形で表現する必要がある、と学ばされたのだ。それが避けられない条件だと気づくと、私はたった2作発表しただけでジョン風の物語を書くのはきらめ、あの親切な医者に短い手紙を送り、これまで彼が書いたものを揶揄したことに対して真摯な謝罪の念を表した。(『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』ミッチ・カリン作 駒月雅子訳)

 

かつて、アンの手袋をそっと隠したワトスンの「優しい嘘」。

それは、彼の気遣いが消沈した親友を相手に発揮されたものとみていいと思う。ワトスンの優しさとアンの孤独は、手袋の形をして、いつもホームズのそばにある。

逝ってしまった人は、不意に語りかけてくる。音楽や、遺品や、その人を知る誰かからの手紙の中に、その人はいる。

正確には、生きている私たちが、その人を思い描いているだけなのだ。でもいつか、本当に本当に救いが必要な時が来たら、正確であることがどれほどの意味を持つだろうか?アンのように、ウメザキのように、物語にすがるのは、いけないことだろうか?ホームズの追い求めていた真実と、アンが見つめていた彼女にとっての真実は、どこかでつながってはいないだろうか?

すべての真理をつかむには、私たちはあまりにも小さい。だから、頭と体の動く限り、追い求めるしかない。それぞれに与えられた環境で、それぞれにできるやり方で。

 

しかし、人は何かを深く追えば追うだけ、背後に置き去って遠く離れてしまったように思えるものを、強く求めるのかもしれない。ホームズにとって、それは「真実」と「嘘」だったのだろうか。ドイルにとってのそれは、何だったのだろうか。いま私が置き去りにしようとしているものは、何だろう。

原作と映画の結末は違う。その変更も、ホームズや私達の思いをとろりと包み込む、優しい嘘に思える。

焦りや怒り、失望や悲しみはこの世だけのもので、逝ってしまった人達は、とろりとした膜の向こうで微笑んでいる。そう信じて祈ることこそが、きっと、最大の「優しい嘘」だ。

 

2016年

1月

03日

年末年始だけ、ごはん日記

12月28日 (一人パーリィで痛い目に合う)

 

仕事納め。

誰かと「良いお年を」と言い合って別れるのは嬉しい。仲良しの人も、そうでもない人も、しみじみ大切な人に思える。ふわふわと温かい気持ちは帰り道も続いていて、今まで作ったことないレシピに挑戦するべく、スーパーに立ち寄った。

練りウニをいただいたのだがほとんどお酒が飲めないので、ウニクリームパスタを作ってみることにした。以前無印良品でレトルトのを試しておいしかったのだが、そこそこ高い上にコレステロール値が気になるのでずっと食べてない。今日は解禁だ。

贅沢して生クリームを買って、フライパンの上で練りウニとまぜ、ゆでたパスタを和えてみた。

材料の値段に比例してすごくおいしくなるはず、と期待したがそうでもなかった。少なくとも、レトルトより乳脂肪分が高そうな味はした(実際高い)。おいしくないのにカロリーはしっかり高いものを作ってしまった自分に腹が立ったが、勢いで完食した。

贅沢ついでにカットパインも買ったのだが、こちらはすこぶる美味だった。根拠はないがウニパスタの無念とカロリーを中和してくれるような気がして、食べ過ぎた。

そうしたら夜中にお腹が痛くなって、それに相まってパイナップルの酸でのどや胃の粘膜がひりひりしてものすごくつらかった。消化器官の内側が、口からお尻まで一直線に全部つらい感じだった。ついでにトイレが寒くて、外側も地味につらい。

痛いのはお腹だけでそれ以外はまあ我慢できるのだが、私が何をしたんだ、と恨みたい気持ちでいっぱいだった。何をしたかも実はわかっているので余計にやるせない。脳までつらい。

 

12月29日 (ほぼ断食)

 

パイナップルの後遺症か、まだちょっと胃が痛い(本当は消化器官全体が痛いと言いたいのだが、それは気のせいだと看護師の友人にきっぱり言われた)。パイナップル恐るべし。

明日、お寿司の約束があるのでできれば復活したい。様子をみながら、白湯とか、小さいカップのヨーグルトとか「摂取する」。

大掃除を今日やるつもりだったので、これは痛いロスだ。夜になってようやく、クローゼットの整理とかしてみる。

 

12月30日(大掃除が始まらない)

 

復活した。しょっちゅう具合の悪いようなことを書いているのでご心配いただくこともあるが、胃腸は強いのだ。

近所にあるタッチパネルで注文するタイプの回転寿司に、初めて行ってみる。友人の9歳になるお嬢さんが、慣れた様子で「海老天」を注文して度肝を抜かれた。海老天が乗っかったお寿司が出てきた。タッチパネルの操作を完全に彼女に任せて、大人は口頭で好き放題注文する(9歳児に)。

 

 帰りにスーパーの特設コーナーでわらびもちを買って、大掃除中丸出しのわが部屋でお茶を飲んだ。フードコートみたいなところで『スピン』という米菓子みたいなのも買った。同世代の友人たちは懐かしい、と言っていたが、私にはあまり記憶がない。ざっくりした歯触りでおいしい。

それから皆でゲームをした。動物の生態を当てるゲームなのだが、9歳の子どもに対していい大人のNくんとSさんは一切勝ちを譲らなかった。私は友人二人のこういうところが好きなのだが、9歳の彼女は大泣きし過ぎて吐いた。なかなか病人モードから抜け出せないわが部屋、としみじみ思いながら、夜カーペットを洗う。

 

12月31日(脂との闘い)

 

スーパーに大書きされていた「おせちもいいけどカレーもね」というフレーズが頭を離れなくなってしまい、おせちの準備を放っておいてカレー食えって意味じゃないよな、と了解はしているものの、昼はカレーを作った。と言っても買ってきた材料はおせち用なので、トマト缶と鯖の水煮缶で作るサバカレー。

昨日Sさんが生クリームの残りを泡立ててくれていたので(クリスマスにいただいたパネトーネというお菓子につけて食べた)、思いついてマッシュポテトに混ぜてみたらものすごくおいしかった。ジョエル・ロブションはおいしいマッシュポテトを作るコツを「バターをたっぷり入れること。50パーセントまではバターを入れてよい」と語ったそうだが、生クリームもいい。口当たりがふんわりする。

しかし、これは人をダメにする食べ物だ。5万円のディナーでぽちっと出てくるならともかく、こんなん家で日常的に作って食べたらダメになる。具体的には、映画「セブン」で暴食の罪で殺された人みたいになる。誰か私に記憶を抹消する光線を当てて欲しい。

 

夕ご飯は実家に行って年越しそばをいただく。アパートに帰ってから実家のおせちの担当分(私が独立して台所が二つになったため、分担している)を作る作る作る。

 

・柚子なます

・筑前煮

・オレンジチキン(SHERLOCKのジョンのブログに『パンダ・エクスプレス』に似た名前の中華料理屋さんが出てきて、懐かしくなっておせちに入れてみたところ、好評だったので毎年作っている。オレンジジュース入りの甘酢だれで和えた鶏の唐揚げ。私は青ネギもたっぷり添える)

・豚肉の野菜巻き(八幡巻の豚肉版みたいなやつ。照り焼きにする)

 

……こうして見ると、台所が汚れそうなやつばっかりじゃないか。母に謀られたか。(掃除したばかりの換気扇!)揚げ物する鍋がなくてフライパンでやったので、すごく油が跳ねる。そこら中水拭きし過ぎて手がガッサガサだ。

 一応紅白歌合戦を流しっぱなしにしていたが、エアコンの風が一番よく当たるところにカーペットを干していたら、音すらほとんど聞こえなかった。

 

お祝い用の箸を買い忘れていたので、折り紙で箸袋を折りながらの年越しになった。

どの番組を見ながら年越しするか考えあぐね、結局NHKを観ていたら、予約録画のために画面が切り替わって「キャプテンアメリカ・シビルウォー」の物々しいトレイラーを観ながら年が変わった。まあいいか。

 

1月1日(働き者の友人と甥)

 

雑煮の準備をしようと、「小松菜をさっとゆでて絞る」(←レシピ棒読み)。

コンビニ頼みで平日はほとんど料理しない私だが、料理中の食材とはきれいなものだなあ、と思う。

私は本の装丁を見るのが好きで、美術品よりもずっと興味があるのだが、それはきっと背景に「読む」という楽しみが隠れているからだ(たぶん、音楽とか美術とか、感覚へ直に切り込んでくる芸術と正面から取っ組み合うのが私は苦手なのだ)。

食べ物を美しいと思う気持ちにも、「食べる」ことへの期待が含まれている。

その美しさが、どんどん姿を変えていく。この手でそれを引き受け、見る、触る、音を聞く、匂いを嗅ぐことで「おいしそう」という気持ちが高まる。

正月の朝の、おせちがあるから暖房できない台所のきりっとした寒さもいい。食べるだけの人は、この楽しみの一番終わりのとこしか味わえてないのだな。だからといって今年からもっと料理します、と断言はできないが。

 

大家さんの餅つきにお呼ばれ。新年早々よその家族にお邪魔するのも申し訳ないのだが、通りすがりの人にも餅をつかせたり、飲み物を出したりする太っ腹な御一家なので甘えさせていただいている。こういうお正月を知らずに育ったので、毎年いちいち感動する。昔話の庄屋さんみたいだ。

幼馴染のSさんとYちゃんが合流。

飛び入りの友人たちはたいそう有能で、餅とり粉をまぶしまくり、大福を包みまくり、余った餅をのしまくり、「彗星のように現れた期待の新人」と絶賛されていた。

つきたてのお餅をからみ餅、大福、お雑煮と抜かりなくいただいた。

アパートに戻って料理をつまみながらダラダラしたが、ここでもSさんとYちゃんのスキルが遺憾なく発揮され、かまぼこをウサギの形に切ったり、いくらやアボカドを飾ったりして、いつSNSに投稿しても恥ずかしくないような写真を撮ってくれた。

幼馴染たちがデキる女なのはわかってるんだが、この「いいタイミングでさりげなくいい感じの写真を撮る」技術は、どうやって身に着けたのだろう。いつの間にか、女友達という女友達が同じテクを習得している(私の友人に限った話かもしれないが、男友達はそうでもない。出されればただ食う)。皆が一斉に携帯を出すと、私も目の前にある光景が惜しい気持ちになって同じ構えをとるが、完全に後手後手だ。

 

夕方からは実家に行って、両親と弟夫婦、やたらとペラペラしゃべるようになった甥っ子に会った。甥っ子は英語でしゃべると大人にウケがいい、ということを自覚していて、"Coffee please"と頼むとコーヒーメーカーのところまで走っていき、"Here you are"と(コーヒーに見立てた何かを)渡してくれる。その後はこちらが飲む振りをして"Yummy"と言うまでわくわくと見守っている。

何度も繰り返して飽きたので逆にこっちから"Here you are"と渡したら、しばらく考えた後で一口だけ飲むふりをして「にがい」と言った。

 

ホットカーペットの上で毛布をかぶってうとうとしながら、「エージェンツ・オブ・シールド」の一挙放映を観る。

 

1月2日(急にエンジンがかかる)

 

もちなしのお雑煮をおつゆがわりにして、朝食。

小松菜やかまぼこの残りも入れたらすごく具沢山になった。

おせちの残りをご飯で食べるのが好きなので、幸せだ。

昆布巻きとか煮しめとか、ちょっと余ってしまう系のおせち料理が好物なので、太るの覚悟でたくさん食べた。

一人用の冷蔵庫は余った料理と材料ですぐにいっぱいになる。

隙間作り最優先で「材料検索」し、「鶏肉と大根のさっぱり煮」を作る。

 

友達のブログに表示されていた広告に触発されて、防災袋を作ってみた。

と言っても、リュックとかラジオつき懐中電灯とか、ちゃんとした防災グッズはまだ買っていない。

アルミのシートとか、軍手とか、除菌ティッシュとか、ホテルでもらったスリッパとか、いただきもののキャンドルとか、なんとなく靴箱に突っ込んでいたものをやはり持て余してたイケアのブルーバッグに集結させただけだが、バッグのタグのところに連絡先や血液型を書いたら、急に緊張感が出た。

いつか、これを作っておいてよかったと思う日がくるのかもしれない。

肝心なものがなくてイライラするかもしれないし、全然足りないかもしれない。誰かがこれを見つけた時、私はもういないかもしれない。

その時そういう心境でいられるかどうかはわからないが、小さく「見つけたら使ってください」とも書いてみた。

 

夕方、きんとんとコーヒー、黒豆を入れたヨーグルトを用意して

「グレーテルのかまど」スペシャルを観る。

あと「富士ファミリー」というスペシャルドラマが良かった。

木皿泉作品、友達に絶賛されていたがちょっと説教くさくて私は苦手、と思い込んでいた。今回は何かがかちっとかみ合ったみたいに、説教くさいところも含めていいなと思った。

 

普段は家事を始めるエンジンがなかなかかからないのに、一度かかると今度は冷めない。夜中に突然思い立ち、便箋や封筒、カードに切手やシールなどを適当に詰め込んでた小引出しをひっくり返して整理した。

ついつい、紙物を買ってしまう。服と違ってすぐにはヘタらず、それほど流行がないのもあって、昔買ったものの可愛さに今でも悶絶する。

鳩居堂の絵葉書とか、ドイツのパン袋とか。結局、ここだけは思い切った整理はできない。私が突然死んだら友達皆で分けてください。箱にまとめておきました。

 

年賀状の返事を書きながらエージェンツ・オブ・シールド。

各話のエンドクレジットのあとに3秒くらい出てくる、落書きみたいなエイリアンがふらふらと歩いていくアニメが怖い。

今はネットで「それは何なのか」を簡単に確かめられるけど、昔はテレビを観るときこういう怖さをもっと何度も感じた気がする。

 

1月3日(コンビニ生活への復帰に向けて)

 

朝昼ごはんは八つ頭の煮物、おつゆの残り(かさが減っててちょっと焦がしそうになった)、雑穀ごはん、いくらの残り(賞味期限やばい)、アボカドの残り。

自堕落な生活も今日までかな~と惜しみつつ、洗濯をして年賀状の返事を出しに行く。ローソンの蟹クリームコロッケを一度食べてみたかったので寄ってみるが、なかったのでじゃがいものコロッケを買う。

夜ごはんはコロッケと千切りキャベツ。柚子なますの残りの材料(千切り頑張り過ぎた)で、キャロットラぺと大根の味噌汁。あと、豆乳が豆腐になりかけた小鍋みたいなレトルト食品に、青ネギの残りを振って食べた。

この商品を開封する時、私はいつも豆乳を爆発させてしまうのだが、久しぶりに買ったら蓋に「爆発しない開け方」が書いてあって、ちょっと嬉しかった。粗忽者は私だけじゃなかった。要約すれば「ゆっくり開けろ」なのだが。

小松菜とかまぼこの残りはバターで炒めてみた。これと煮物の残りで明日はお弁当。

嵐の二宮君が主人公の「坊ちゃん」(赤シャツが及川ミッチー!)を録画した。週末はこれを観ながら、クリスマスにSHERLOCKのカレンダーを送ってくれた友人に送る、柚子ジャムと柚子カードを作ろうと思う。

 暮れからずっと台所の隅で小山になってた柚子があっという間に小さな瓶におさまって、大掃除感があるはずだ(もはや『感』で妥協してる)。 

そういうのも料理する人の快感だよな~と、早くもコンビニ生活に一歩足を踏み入れながら思う。

                                  

2015年

12月

19日

銀杏を洗う

記事のひとつをツイッターで拡散していただいた際(それ自体はとてもありがたいことだ)、私の文章の拙さが原因で、読んでくださった方に嫌な思いをさせてしまった。

私自身はツイッターのアカウントを持っていないが、激しく怒っている方のツイートを友人が見かけたそうで、「対処したほうがいいと思うよ」とスクリーンショットを撮って送ってくれた。

 

傷ついた。しかし、身から出た錆だ。

当該記事にも追記をしたが、発端は私が「ワトスンは何もできないキャラクターの代表のように言われている」と書いたことだ。その部分に対し「ワトスンが何もできないだと?この人は何を言っているんだ」という反応があったらしい。ツイッターには発言を一般公開しない機能もあるため、何人の方が同じように思われたかはわからない。

『SHERLOCK』におけるジョンのような重要な役割も含め、『ホームズ』二次創作におけるワトスンの描かれ方には、それぞれの作品においてそれなりの意味がある。だから道化や役立たずとしてのワトスン像を頭から否定するつもりはないが、個人的には、原作のワトスンを揶揄する人には心の中で反発してきた。しかし、いつの間にかそうした評価をひとつの現実として受け容れてしまったようで、別の映画について語る時に一般論としてさらっと出してしまった。

「ワトスンぼんくらイメージ」が存在していたことは、お怒りになった方々も認識していらっしゃったようなので、矛先が私だということはこの際たいして重要ではないのかもしれないが、いずれにしても、先に石を投げたのは私だ。

石ならまだいいのかもしれない。小石であれば、痛いのは短時間で済む。

言葉の暴力で投げられるのは、銀杏の実のようなものだと思う。投げつけられるといつまでも臭い。忘れたくても、不愉快がまとわりつく。

 

以前勤めていた職場には、大きなイチョウの木が何本もあった。

路上にたくさんの実を落としていたので、そこを通学路とする子どもたちに「ぎんなん地獄」と呼ばれて嫌われていた。

上司の一人は少しでも空き時間ができると黙々と銀杏の実を拾っていた。子どもたちには「ぎんなんおじさん」で通っていたらしい。私たち部下も手伝ったが、とにかく量が多いので、毎年かなりの量を彼一人で拾ったはずだ。実は際限なく落ちてくるから、いくつもいくつも、何度でも。

大量の実を水に浸け、掻き回して(お風呂のお湯を掻き回す棒が最適だそうだ)種を取り出し、大きなかごに並べて乾かしてくれるのもその人だった。

いくつもの工程を経て手渡された銀杏の種を使い古しの封筒に入れ、電子レンジにかけると、硬い殻が割れて、透明感のある翡翠色の粒が現れる。その大きさに比して信じられないほど、滋養に満ちた味がした。

 

ツイッターでの生き生きとした言葉のやりとりは、見ていて本当に楽しい。

きっと、タイムリーに怒ってくれた人がいたおかげで、私の言葉に傷ついていた人は救われたと思う。そうだとしたら、その人のおかげで、私もまた救われている。そうした効能はツイッターならではのものだ。

でも、私はまだまだこのツールは使いこなせないと思う。言葉に余計なものをまとわせてしまったり、思ったことをうまく伝えられなかったりするから。

もともとの人間性がダメなのか、言葉の使い方がなってないのか、両方なのか。よくわからないが、とにかく私は、銀杏を洗うような作業を経ないと言葉を発せないのだと思う。

いい人ぶるつもりはない。悪口だって言うし、自分勝手なことも、いいかげんなことも言う。

洗ったところで自分の臭いはとれないし、手をかけても不味い実が出てくる。

しかし、洗わねばなるまい。桜のようにそこにいるだけで皆を楽しませる木もあるが、桜には桜の苦労があるはずだ。臭い実を投げつけて人に悲鳴を上げさせてしまう木に生まれついたら、それなりに努力しなくてはいけないのだろう。

元職場のイチョウは、既に切られてしまった。「ぎんなんおじさん」は、来春定年退職する。

 

徹底的に磨かれた、という感じがする言葉に触れるのが好きだ。

最近『CITY HUNTER』の続編がドラマ化されていて思い出したのだが、アニメ『CITY HUNTER2』の主題歌の一節をよく口ずさんでいた。

 

最初に好きになったのは声

それから背中と整えられた指先

ときどき黙りがちになるクセ

どこかへ行ってしまう心とメロディ

(PSY・S 『ANGEL NIGHT~天使のいる場所』)

 

身近にいる人に恋をする、その過程が四行に凝縮されている。

きっかけは、声という、意識しなくても耳に入ってしまうもの。

つい相手に見入ってしまい、今までは目に入らなかった細かな発見にドキドキする時期を経て、相手の内面を想像するようになり、自分とのつながりを切なく望むようになる。

そういう分析が出てくるのは大人になった今この歌を思い出したからで、子どもの頃は理由もわからずただ惹かれた。助詞の「と」に「整えられた」が続く「と・と・と」という音の並びが心地よかったのを覚えている。

いい言葉は、どんな受け取り方をする人も惹きつける。

いつかこういう言葉が書けたらなあ、と思う。

2015年

11月

22日

『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松くん』の六つ子が大人になった、という設定の深夜アニメ『おそ松さん』がネットでウケていて、ローカル局の千葉テレビは「この波に乗っかって」『おそ松くん』の再放送を開始したそうだ。

 

この件において、群馬県民は完全に勝ち組である。群馬テレビでは『おそ松さん』が始まる数か月前から『おそ松くん』の再放送をやっていた。

群馬県民は、満を持して新旧作品を比較できたわけである(やっている県民がいたかどうかは知らないが)。

 

私は1988年版の放送をリアルタイムで観ていて、主題歌(仕事とローンに追われるサラリーマンの悲哀を歌ったものだった)を大声で歌っては周囲の大人を苦笑させていた世代だ。

このバージョンもアニメ化としては2作目らしい。当時も、大人に「昔のアニメのほうが毒があった」とか「いや原作の方が」と言われていたが、原作と1作目を知らない私にとっては、十分無茶苦茶だ。

第10話では、六つ子の長男おそ松が高熱を出し、イヤミが彼を死神に売り渡す。最終的にはそこまでの流れとはほぼ関係なく全員死んでしまい、「それでは皆さまさようなら」とミュージカル調に終わる。往年のギャグへのオマージュだとしてもすごい。ボケ、投げっぱなしだ。

 

それに比べると2015年の『おそ松さん』は、不条理は不条理だが、何というかフォローが効いている。

まず、ほぼクローンだった六つ子にわかりやすい個性がついた。性格は六者六様だし、外見も描き分けられている。

そのことによって、六つ子の間に関係性が生まれる。ちゃんと「ツッコミ」がいるので、一つ一つのギャグがきっちり「回収」される。日頃鬱屈している者が愛情を垣間見せるという「ちょっといい話」もある。

『おそ松くん』に限らず昔の漫画には、現実とその世界をつなぐ説明がなかった。例えば、どうして毎日同じ服を着ているのか。安月給のお父さんと専業主婦のお母さんで、どうやって六つ子を育てているのか。

服装に関しては、時代性もあるのでうまい例えではなかったかもしれない(おそ松くんたちはいつも学生服のような服装だったが、現実もそんな感じだったのかもしれない)が、驚いたことにおそ松さんたちは着替えている。ジャケット、パーカ、つなぎなどバリエーションがあるし、丈や着こなし方にも個性が出ている。

一家の経済状況にも言及がある。母に「ニートたち」と呼ばれる兄弟(この『ニートたち~』が何ともいえずあっけらかんとしていて、今はニートって普通のことなんだなあ、と実感する)は「このままではまずい」と思って就職しようとしたりするが、イヤミに「子供のころチヤホヤされた連中はこれだから」というような陰口を叩かれていて、(マンガやアニメ『おそ松くん』の)子役としての収入が一家を支えていたことが、六つ子が自立せず両親もそれを責めないことと関係があるのかもしれないなあ、などと邪推させられてしまう。

 

こうした「現実的な見方」があった方がいいとかない方がいいとか言いたいのではなく、現代のギャグ漫画にはメタ要素というか、視聴者や読者の視線がより多く混ざるんだな、と思う。ストーリーの中で登場人物が自分の立場で語るのではなく、観ている子供たちが翌日の教室で話すようなこと。「いつも同じ服だよな」とか、「見分けがつかないなら変えたらいいのに」とか。

『おそ松さん』におけるツッコミもかなり視聴者目線だ。登場人物の一人として自らの立場からツッコむのと同時に、視聴者の気持ちを代弁するという機能をはっきり打ち出している。「いや、おかしいだろこの状況!」とか、視聴者ではなく登場人物が言う。同じことを、視聴者は翌日の教室ではなくリアルタイムでSNSなどで言っている。

 

では、どうして今、視聴者目線が取り入れられるのか。

それは視聴者もまた優秀な創作者であることが、二次創作の台頭でわかっているからかもしれない。ネットには『おそ松さん』の二次創作が溢れている。製作者がそれを見越しているのは、第一話を見れば自明だ。

視聴者を置き去りにした「それでは皆さんさようなら」から視聴者寄りにシフトすることで、『おそ松さん』は成功し、放送期間も延長されたわけだが、第二作と第三作の間にはビデオゲームの台頭があった。二次創作ブームの背景にはネットの普及もあるが、その更に前の私の世代には、ゲームの影響がある気がしてならない(ゲームはしないが二次創作はする、という人ももちろんいたが、時代の空気はたっぷり吸っていたはずだ)。

当事者なのでよく覚えているのだが、子どもたちに爆発的なファミコンブームが起こったのは『おそ松くん』88年版放送の数年前で、だから88年版おそ松くんを作ったのはファミコンを知らずに育った大人だ。

ゲームは想像力を奪うとか暴力性を引き出すとか、大人には散々言われたものだが、それは半分当たっていて半分はずれている。

初めてゲームを手にした時感じたのは、自らの手で物語を切りひらいていく手触りだ。主人公の運命は私の手中にある。結末を自分で決められないテレビや本とは違い、主体的に関われる娯楽。実生活において自分で選択できることが少ない子どもにとって、それは何ともいえない快感だ。その証拠に、読者の選択で物語が分岐する「ゲームブック」も当時流行った。

一方で、世界やキャラクターは既成のもので、一から物語を作らなくていいという手軽さもある。登場人物をひどい目に合わせても、自分は傷つかない。「腹を痛めて産んだ子」ではなく、借り物の体だからだ。飽きたら、また次の対象に移ればいい。

そういう意味で、他人の作ったキャラクターを借りて物語を作ることは、ゲームをプレイすることに似ている。私はゲームの愉しみも二次創作の愉しみも否定しないが、ゼロから何かを作り出すのとは、やはり違う。どちらがより偉いというのではないが、種類の違う行いだと思う。

 

『おそ松くん』の六つ子は顔かたちはすべて同じで、それに「ツンデレ」とか「無邪気」とかさまざまな色を付けていくのが『おそ松さん』だ。

それは、二次創作が外から見るよりもずっと豊かな創造性に溢れていることと同時に、一歩引いて見れば没個性的にも見える、ということも暗示している。どこに視点を置くか、何を愉しんで生きるかは、人それぞれだ。

 

2015年

11月

16日

『キングスマン~』の中の『最後の事件』

「塚口サンサン劇場」プロデュースによる「キングスマン・レディース&ジェントルマン上映」の東京版(角川シネマ新宿)に連れて行っていただいた。

参加した方々がさまざまな形でレポートしてくださっているが、ここにも「L&G上映」の概要をざっと書いておく。

 

・ドレスコードがある(ジャケット、眼鏡、傘。ただし強制ではない)

・大きな声を上げてもよい。

・クラッカーや紙吹雪が劇場側から配られる(持ち込みも可)


思い思いのお洒落をして、(劇中に出てくる)ギネスを楽しむ。上映までの待ち時間にはかっこいいDJがサントラを回してくれている。観賞グッズを自作してきた人も大勢いて、初対面の参加者とも会話が弾む。本や映画など、ひとりでひっそりやる娯楽を好んでいた私にとっては、上映前から既に異次元である。

主催者の挨拶と"Eat, drink,party!"(これも劇中のセリフ)の唱和で上映が始まる。

上映中は、観客が主役だ。お気に入りの場面でクラッカーを鳴らす。鋭いツッコミにどっと笑いが起きる。人気キャラクターが出てくれば嬌声がわく。

アメリカ人の友人に話したところ、「アメリカでは普通の映画館がそんな感じだよ」と言われたが、違うのは「観客全員が2度目以降の鑑賞」というところではないだろうか。

日本人は自制する。映画の登場人物に対して愛を叫ぶという「オタク的行為」は、「そうでない人もいる環境」では許されない。オタク自身が、それを許さない。

だから、自分たちを隔離する。「ファンだけが集まり、好きなだけ愛を叫んでいい環境」を作り出す。そこから、新たな文化が生まれてくる。

「文化」なんて言い方は大げさかもしれないが、今回私が一番感動したのは、塚口サンサン劇場で、既に独自の鑑賞文化が育まれていたことだ。

歌舞伎の大向うのような「ツッコミ師」がいて絶妙なツッコミを入れるのは、ニコ動のコメントや2ちゃんねる、Twitterでの「実況」を基にしたスキルだし、好きな場面でクラッカーを鳴らすのはFacebookの「いいね」や、ブログの「拍手」である。観客たちが共有するバックグラウンドが、ちゃんと生きている。

観客がごみ袋や軍手を持参して散らかった紙吹雪やクラッカーを掃除するのも、サンサン劇場の恒例行事だそうだ。

ちなみにチケット代は通常の映画料金と同じ1800円なのだが、劇場はクラッカーや紙吹雪を提供したり(紙吹雪も、劇中の写真をあしらった凝ったものだ)、照明や音響で盛り上げたり、クライマックスでは風船を飛ばしたりと、趣向を凝らしてくれている。観客の滞在時間や清掃の手間を考えると、時間的、金銭的には劇場が損しているはずなのだ。

開催する側に、作品が好きで楽しみを共有したいという思いがあり、参加する側もそれに応える。エンターテイメントにエンターテイメントで、ホスピタリティーにホスピタリティーで。これはとても幸福な図式だ。

チケット販売は「瞬殺だった」そうだ。この先、こういうイベントが増えていくのだろう。開催者、参加者、双方への批判も出てくるだろう。同人誌即売会がそうであったように初めは純粋な思いで支えられていても、商業主義に走る者が現れたり参加者のモラルが問われたりするのかもしれない。

そうだとしても、今この時、塚口サンサン劇場や角川シネマの取り組みに参加させてもらえたことを、私は誇りに思いたい。新たな文化の誕生に立ち会えたことを、若い世代に繰り返し自慢してウザがられる婆さんになりたいと思う。

連れて行ってくださったRさん、Lさん、ありがとうございました。スタッフの方々はもちろん、そこにいたすべての人たちに感謝したくなるようなイベントだった。何度も言うようだが本とか映画くらいしか娯楽を知らず、クラブとかライブとかほぼ無縁だったので、生まれて初めて「今夜は最高!」と大きな声で叫びたくなるような夜だったのだ。音楽やダンスより本や映画に痺れるタイプの人間だって、たまにはそんな夜に溺れたい。

 

さて、多分TwitterとかでL&G上映への賛辞は何度も呟かれていることと思う。

せっかく貴重な参加権をいただいたのだから、ちょっとは毛色の違った感想も書いておくべきかもしれない。そんなこんなで、ここからは一シャーロッキアン見習いとして映画「キングスマン・ザ・シークレット・サービス」の内容に触れたい。需要があるかどうかは置いといて。

 

7回目とか5回目とか、手練れの観客ばかりの中で「たった」2回目の鑑賞だった私だが、クラッカーを鳴らすタイミングは心に決めていて、その一つが、主人公エグジーが教官のマーリンを「マイクロフト」と呼ぶ場面だった。

何でもホームズ関連の語句に「空耳」「空目」する習性があるので、本当にマイクロフトと言ったか確信がなかったのだ。しかし、よく聞いてもちゃんと「マイクロフト」と呼んでいたので、私は心おきなくクラッカーの紐を引いた。

IMDbを確認したところ、やはり「マイクロフト」はホームズの兄を意識したセリフだったようだ。マーリンを演じるマーク・ストロングがガイ・リッチーの映画「シャーロック・ホームズ」に出演していたことに由来するらしい。

あっ、と思った。キングスマンのボスになりすましているエグジーは、演技の一環として、パイロット役のマーリンに「おめでとう、マイクロフト。パイロットから執事に昇格だ」と言う。

マイクロフトが御者に扮してワトスンを送り届けるのは『最後の事件』だ。ホームズとワトスンが行きつくのはスイスの山中。エグジーとマーリンが潜入するパーティーの会場があるのも、どっかわからんけど、なんか雪山だ。

 

こじつけもいいところだが、もし『最後の事件』とこの話がつながっているとすれば、共通点はもう一つある。

ハリーとエグジー、ホームズとワトスン。関係性は異なるが、信頼関係で結ばれた二人の、片割れがいなくなるというところだ。

ハリーとエグジーは非常に親密だ。ほとんど疑似父子として描かれる。

エグジーは、血の気の多い若者に見えるが、その実とても素直だ。保護者としては頼れなくても愛してくれる母親には愛情を、軽視してくる義父には軽蔑を返す。信頼を向けてくる友人は全力で庇う。いじめにはきっちりやり返すが、引きずらない。性的な視線を向けてくるプリンセスの誘いには乗るが、男ばかりの候補者の中で孤立するロキシーには、女性ではなく友として対する(だから私は、彼のボンド的なプレイボーイとしての振舞いにさえ、欲望よりも無垢さを感じてしまう。彼は、望まれる自分を望まれるように返しているのだ)。もちろん、ハリーの強い愛情や信頼には、全力で応えようとする。

天才的な活躍を見せるエグジーに「何もできない」キャラクターの代表のように言われる(※追記2)ワトスンを重ね合わせては叱られてしまうだろうが、利他的なところはワトスンに似ているのだ。

自堕落になっていたワトスンは、ホームズに出会って自らの興味のきらめきを感じる。相手の存在のおかげで気持ちが引き立ち、感性が研ぎ澄まされる、というのはホームズにとっても同じである。しかし、ワトスンは家庭と言う新たな居場所を見つけ、ホームズのもとを去る。

 

ハリーの人物像は謎に包まれているが、コードネーム「ガラハッド」に象徴されるように、一貫して高潔な紳士として描かれる。

そのハリーがイライラとした表情を覗かせるのが、エグジーが愛犬を撃つことをためらって試験に落ち、キングスマンになることを諦めてひとり帰宅した時だ。ハリーは強引に彼を私邸に連れ戻し、感情を叩きつける。そこで呼び出されて、例のチャーチ・ファイトが始まる。

この時のハリーの大量殺戮に関しては「SIMカードを所持していないものにも影響がある」と劇中で説明されているが、私には、ハリーがエグジーに対する「個人的な怒り」を秘めていたことも少なからず影響していたように思える。

ヴァレンタインがスイッチを入れる前から、ハリーは感情的だった。聞くに堪えない差別的な説教に苛立ったようにカモフラージュされているが、意見を異にする人間たちの中にうまく紛れる経験は、これまでにもあったはずだ。心中には、エグジーに対する感情が燻っていたのではないか。

正気に戻ったハリーが自覚するのは、操られていた自分ではなく、その前の、私情に翻弄されていた自分だ。ハリーの死は、彼自身にとっては「キングスマンとしての自分の死」なのだ。

 

エグジーに対するハリーの怒りは、SHERLOCK第3シリーズでクローズアップされた「ワトスンに対するホームズの感情」と同じ種類のものだ。

唯一信頼できるパートナーであったはずの者、目をかけて育てたはずの者。一旦懐に入れてしまった相手が、一番根っこのところでは自分と同類ではありえない。その事実を知ってしまうということは、孤独な天才にとってはどんなに嘆かわしいことだろう。それはすなわち、完全に孤高でいることができない己の限界を知るということでもある。

 

しかし、だからこそ、ハリーの死はホームズの死と同様に、肉体の死ではない、と思う。ハリーが生きている根拠は劇中にもいくつか提示されているのだが、私は「キングスマン」の後半部を『最後の事件』に見立てる、という酔狂をやった上で、ハリーの「帰還」を信じたい。

エグジーは、ハリーを失った上で立派なキングスマンになった。

ワトスンは、ホームズを失った上で人気作家になった。

同じように、痛みを知った上で蘇る者には成長があるはずだ。

ヒーローは、全てを切り捨てた、ストイックで完璧な存在でなくてもいい。そうでない部分をこそ、私たちファンは愛する。

 

追記(2015年11月20日)

エグジーがマーリンを「マイクロフト」と呼んだくだりについて、「マイクロフトがマーリンの本名なのでは?」と友人から意見をもらった。

その可能性もあるが、仮にエグジーがマーリンの本名を知っていたとしても、敵地で唐突に本名を用いるというのは周到な彼に似つかわしくない気がするので、私は(メタ的な解釈を置いておくとしても)「ホームズ由来説」を取りたい。

エグジーはButlerではなくvaletという言葉を使っているので、本来は執事(従者の仕事に加え、屋敷全体のの業務を統括する)よりも従者(主人に付き従って身の回りの世話や秘書業務をする)という訳が適当なのだと思う。

従者といえばジーヴス&ウースター、と私はすぐに連想してしまうのだが、それは私の英文学の知識の裾野が短いからで、同様に「咄嗟に出した従者の名前」が「ホームズの兄・マイクロフト」というところに、エグジーの読書歴が見えてくるのかもしれない。

エグジーは「プリティ・ウーマン」を観たことはなくても、「マイ・フェア・レディ」はなぜか知っている。いかにも不良少年、という服装をしている一方で、キングスマンに並ぶ高級スーツにも憧れる。

無知でもなければ博識というわけでもない。下品なだけでもなければ、スノッブでもありえない。優等生的な資質を持ちながら、不良少年の社会に馴染んでいる。知識や興味のグラデーションにおける、ある部分がばっさり抜け落ちている、という感がある。

英国において、何を読んでいれば読書家っぽいのか、そのあたりの空気感は私にはわからないのだが、日本の青年に置き換えれば、今はヤンキー漫画雑誌に熱を上げる一方で、子供時代は読書を好み、新刊書は買ってもらえなくても学校の図書室にある本はよく読んだ、という感じではないだろうか。そうだとすれば、「シャーロック・ホームズ」のキャラクターが口をついて出てくるのにもうなずける。

マイクロフトが選ばれたのは「マーリン」と頭文字が同じで、格式の高そうな名前、ということだろうが、もしもそこに「最後の事件」を読んだ記憶が紛れ込んでいたとしたら、やはり自分にとって一番のヒーローであるハリーに、子供時代のヒーローだったホームズを重ねちゃったんじゃないの!?もしかしてだけど!もしかしてだけど!と言いがかりに近い妄想を重ねる私である。

 

追記2(2015年12月5日)

上記の記事中、「ワトスンが何もできないキャラクター代表のように言われる」というくだりについて、ツイッター上で「この記事を書いた人はワトスンを何もできない人間扱いしている」というご意見をいただいていると、友人から聞きました。

まず、ご不快な思いをされたことに対して謝罪致します。大変申し訳ありません。

これは長年ワトスンが好きだった私の「世間一般の評価に対する」実感であって、私自身がワトスンを役立たずだと思っているわけではないのですが、さまざまな作品がワトスンの素晴らしさを説いてくれている現在、一般論をそんな風に決めつけるのも乱暴だったと思います。

ツイッターのアカウントを持っていないので直接お話できず恐縮ですが(取ろうかとも思ったのですが、直接抗議なさっているわけでなく『呟いて』いらっしゃる方々に対してそれもまた不調法かなあと……)、これ以上嫌な思いをされる方が増えないよう、また、ツイッター上でワトスンの魅力を呟いてくださっている方々にどうにかして謝意をお届けできないかと、一縷の望みを託して追記させていただきます。

また、自身の表現力不足への反省の意味もあり、記事中の文は改正せずに追記のみさせていただいております。ご了承いただければ幸いです。

 

2015年

10月

18日

晴れたらいいね

福山雅治が結婚して、ショックを受けているファンと、そういうファンに対して「お前が福山と結婚できるわけでもないのに、どうしてショックを受けるんだ」と不思議がっている人がいるようだ。

 

私はショックだ。福山雅治だけでなく、誰が結婚するのも少しショックだ。

それは自分が結婚していないからで、宿題が終わっていないのに友達に「もう終わった」と言われるのと似たショックだ。人が終えていることを、自分はまだやっていない、という焦り。

しかし、宿題をしなくても死なないように、結婚しなくても死なない。

好きな人が結婚した時にショックなのは、その人が私の側の人じゃなくなるから、だと思う。

 

「どうしてショックを受けるんだ」と言う人は、人間を「独身側」と「既婚側」ではなく、「知人」と「他人」みたいなもっと小さなくくり、または更に小さく、個人単位で切り離して考えているのだろう。

そんな風に、論理的にものを考えられるのはすごくいいことだと思う。確かに、人を「独身側」と「既婚側」に分けるのはナンセンスだ。自分は結婚してるけど福山雅治が結婚するのはイヤ、という人だっているだろう。

一方、人の結婚を自分のことのように喜んだり悲しんだりできる人は、共感する力がある。それも素敵なことだ。

共感を持てるからこそできることも、客観を保てるからできることもある。

どちらの考えも、世の中に必要なはずだ。そして、二つの考えは同じ人の中に共存していて、かわるがわる顔を出す。

 

たとえば皆「いじめをなくそう」と言うが、人を憎む力と愛する力は同じ人から出ているわけで、誰かを嫌うことをやめてしまったら好きになることもできなくなってしまう気がする。

「いじめをなくす」というのは考えや行動を理性でコントロールする、ということであって、負の感情をなくす、ということではない。人の感情を強制的に変えることは、誰にもできない。

感情を捨てなくても、いじめをやめることはできる。同じように、誰かの結婚を寂しく思うということと、その人の幸せを願うということは両立する、と私は思う。

 

そんなこんなで、Cさん、ご結婚おめでとうございます。

花嫁姿があまりに綺麗で、すごく寂しくて、すこしショックです。

独身自虐ネタを連発している私からの「おめでとう」はそらぞらしく聞こえてしまうかもしれないなあ、と危惧した末、この際徹底的に本音を書いてみることにしました。

拙くとも本当の気持ちを記したブログを受け止めてくださったCさんだからこそ、下手な例えにも「しょうがないなあ」と笑ってくださる……と良いのですが。


ご自身と旦那様を幸せにしてあげてください。Cさんのお力を持ってすれば、それは簡単なことではないかと思うのです。

もしもいつか、それを難しいと感じてしまう時が来たら、会ったこともない私という人間の心を温めてくださった、その実績を思い出してください。

 

遠い場所で私がCさんの幸せを願っているという事実は、基本的には何の役にも立たないと思います。でも、ないよりはあったほうがいい、かもしれません。

晴れたらいいね、と皆が願っていた日が晴天だったら嬉しいように、私の願いも、Cさんの幸せをほんのすこしだけ彩ることができますように。

 

2015年

9月

05日

アッセンブル!

「夏休み、何してた?」という質問にはいつも答えにくい。

普段会えない人に会ったり、興味があるけれど時間がなくてできなかったことをしたり、充実してるつもりなのだが、私の場合その楽しさが家族や同僚に伝わりにくい。

正直に言うと、アメコミ嵌りたてで、サービスデーの度に淡々とアベンジャーズを観る夏だった。私の職場は8月比較的暇なので、退勤後は避暑を兼ねて映画館に通った(エアコン代と天秤にかけた上で、比較的料金が安い日だけだが)。

晩夏のある夜、ふっと確信した。通ってるのは、私だけじゃない。

 

・50代くらいの男性(いつも一番乗り)

・30過ぎくらいの男性(『スターウォーズ』宣伝J.J.エイブラムス監督の挨拶の前くらいのタイミングで入ってくる。スーツ姿)

・20代半ばくらいの男性二人組(いつも『映画泥棒』の直前くらいにポップコーンを抱えて入ってくる)

 

そして私。

 

他にカップル一組か二組くらいはいるのだが、レギュラーメンバーは固定されている。エンドロール後の「Avengers will return」まで席を立たないのはこの5人だけだし、終了後駐車場までとぼとぼ歩く(『私の想い出のマーニー』参照)メンバーも同じ5人だ。

こっち(観客)も毎週アッセンブル。言ってみればアベンジャーズ群馬支部である。

だったら私がナターシャではないか。胸より下腹が出ていようと、暖かい飲み物とレンタルブランケットが手放せず、上映前に念のためトイレに立つプレ更年期であろうと、遺伝子学上私が一番ナターシャ・ロマノフである。

最終上映(の直前のサービスデー)の夜、私は俄然「このメンバーをまとめたい」という気持ちになっていた。

なんとなく「また会いましたね……」というアイコンタクトを交わしながらも、駐車場までの長い道のりを無言で歩く、内気なマーベルおたく4人組、プラス私。縁あって同じ夏を過ごした仲間に交流をもたらすのは、紅一点の私の使命ではないか。

その時男子二人組の片割れが、しみじみとした声で相方に「終わっちゃうな」と話しかけた。すかさず私は、さりげなさを心がけつつ「終わっちゃいますねえ。よく通いましたね~」と割り込んだ。

「あ、おねえさん何回か会いましたよね。俺ら初日から来てました」

「実は俺も……」

駐車場までの無言の道行きは全員にとって気づまりだったようで、和やかに会話が始まった。思い切って話しかけてよかった。毎度気まずかった数分間が、一気に心楽しいものに変わった。

駐車場の入り口で、一番年嵩の男性が「じゃ、『アントマン』で会いましょう」と茶目っ気たっぷりに振り向いた。

するとスーツの男性が

「あ、私マーベル好きというわけではないので、次来るのはスターウォーズだと思います」

……わざわざ言わなくてもよくないか、それ。

そこで男子二人組が「俺らもアントマンはあんまり」

だから言わなくていいじゃん。おじさん気まずそうじゃん。

私に視線が集まる。

「えーと、アントマンは観に来ると思いますが、次にこんなに通うのはシビル・ウォーかも……」

途端に場の空気がほぐれた。皆、仕方なさそうな苦笑を浮かべた。

なんか、「所詮腐女子か」的な。

「どうせクリス・エヴァンスの尻観に来てるんだろ、わかってねえな」的な。被害妄想かもしれんが。

思ってたのと違うけど、紅一点の活躍によってなんとなく穏やかに解散し、我々の夏は終わったのだった。

 

 

結論:アベンジャーズ群馬支部は帰ってこない。

 

追記(2015年10月10日)


その後、『アントマン』上映で男子二人組の片割れと遭遇。

「ちくしょう、『アントマン』めちゃくちゃよかった~!」

「次におじさんに会ったら土下座して謝りましょう……」と反省しながら駐車場に向かったのだった。


結論:おじさんがキャプテン。

 

2015年

8月

28日

霧雨の東京で

知らない街を歩いていると、急に不安になる。

都会に住んでいたこともあるので、全く状況がわからないわけではないのだけれど、初めて親元を離れて街を歩いた時の自意識過剰な不安を、全く同じように今も感じる。

今日のように仕事を休んでいる時は尚更だ。あの、煩わしくも居心地のいい場所で安穏としていることもできたのに、どうして私はここにいるんだろう。時間も場所も曖昧になり、自分の意志でやってきた、ということすら忘れてしまいそうになる。

自分ではどうにもならない力で、遠いところまで流されてしまった、と思う。

 知っているチェーンのお店が現れると、道しるべを見つけたようにほっとする。大丈夫だ。まだ、そんなに遠くには来ていない。

 

昔の駅舎を利用した、素敵なカフェでコーヒーを飲んだ。

霧雨が降り続けていたが、川に面したテラス席を選んだ。物慣れた感じの人人たちが楽しそうにビールなど飲んでいる、暖かそうな店内には居たたまれなかった。

熱いコーヒーと、マグのしっかりした重さが心強いと思った。

暫くそこにいたかったけれど、外国人観光客がお店の外観を撮りたそうにしていたので、邪魔にならないようにそそくさと席を立った。

 

目的地には近づいていたのだが、早く着きすぎたらまた途方に暮れてしまいそうなので、真剣に探さないことにしてぶらぶらと(でも、人目には目的ありげに見えるように意識しながら)歩いた。ふと、愛読している漫画の発売日が過ぎていることに気づいて、傘を畳んで書店に入った。

本屋さんも、私の味方だ。本屋さんは、ぶらぶら歩きを許してくれる。知っている本もあるし、知らない本もある。それを手にとってもいいし、とらなくてもいい。

 

高校生の時、世界には二種類の人間がいるのだと思った。

誰とでも家族のようになれる人と、たとえ家族といてもひとりぼっちになってしまう人。

そう考えたとき、私は後者だ、と思った。後者だと気づいてしまった、と。

もちろん世界はアホな女子高生が考えるほど単純じゃなく、たぶん誰もが前者にも後者にもなる。

人は、時々異邦人になる。どこにいても、誰といても。

そうとわかっても、さびしさが消えるわけではない。でも、本屋さんは異邦人を受け容れてくれる場所だと思う。ひとりの異邦人になって良い場所、と言ってもいい。

 

友人のレクチャーでマーベルコミックに嵌っているのだが、うっかり彼女が教えてくれた範囲を超えたところまで立ち読みをしてしまい、うわー!うわー!マジで!?と震えながらチェーンのコーヒー店に駆け込んで、友人にメールをした。

友人は仕事中なのですぐに返信がくるはずもなかったが、もう大丈夫だ、と思った。いつの間にか、知っている場所に帰ってきていた。

『夕焼け小焼け』のやわらかなメロディが街に流れ、スーツ姿の、でもリラックスした顔の人たちがビル群から溢れ出てきた。

まだ濡れている窓から見下ろすと、本屋さんの前に自分の傘が見えた。

2015年

8月

21日

すこし、イヤだと思ったこと

「久保みねヒャダこじらせナイト」というトーク番組がすごく好きで、レギュラー化される前からずっと録画して観ているが、先日少しだけ「好き」という気持ちに影が差した(たぶん、出演者のせいではない)。


「こじらせすき間ソング」というコーナーでは、例えば「節分の歌」とか「ゴールデンウィークに働かなくてはならない人の歌」とか、ニッチな需要しかない曲を、出演者たちが類いまれなセンスで作っていく。出演者はポップスへの造詣が深く、出来上がった曲はB'z風だったり、中島みゆき風だったりと、既存のアーティストへのリスペクトが込められている。

先日は小室哲哉風だった。「毛サバイバル」というタイトルで、小室テイスト満載の言語感覚と音楽に載せられたバカバカしい歌詞がたまらなく可笑しかったのだが、小室哲哉本人にコメントさせていたのには「ん?」と思った。

これって、小室が不快に思っていたとしても、その気持ちを出せないんじゃないか。本人たちの事情がよくわからないので余計なお世話かもしれないが、「馬鹿にされた気がするな」「嫌だな」と思っても、洒落のわからない男と後ろ指さされるよりはと、人気番組という長いものに巻かれるしかないんじゃないか。

弱者が強者をおちょくっているようでいて、結局は弱い者いじめをしているんじゃないだろうか。


私は小室哲哉の大ファンだったわけではないが、曲を耳にすると、学生時代がわっと蘇ってくるような興奮を覚える。番組はライブの中継という形式だったのだが、おそらく観客のほとんどにとっても同じだろう。でも、観客や視聴者にも、コムロに対してどこか侮りがあるのではないか。その曲を口ずさんでいた自分を過去の物にすることで、その時代を彩った人までも過去の遺物のように感じているのではないか。私たちが「その後」を生きているのと同じように、その人も「その後」を生きているのに、だ。

人をおちょくるのも侮るのも、一つの表現だし、表現をするなら自身が誰かの表現の標的になるのも覚悟しておくべきなのだろう。でも、「私たちはあなたが大好きなんですよ!だからこれはリスペクトなんですよ!笑って許してくれますよね!」という大義名分のもとに「おちょくっている現場」に本人を担ぎ出すのは、なんかやだな、と思う。

 

同じように「なんかやだ」と思ったことがあって、それは『コクリコ坂から』という映画の公式サイトで宮崎駿からの『メッセージ』を読んだ時だった。この『メッセージ』は「自分がいかに駄作を名作に仕立て直してやったか」という風に読めてしまって、私には不快だった。

「原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリ」「脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない」などの批判には共感するし、宮崎映画の「そうしないところ」が好きだ。ぶっちゃけ、原作より映画の方が好みだ。

でも、原作にもその時代ならではの輝きがあったはずだ。少女漫画には少女漫画の存在意義があるし、独自の作法がある。そこを全否定するような文章を公式サイトに載せるくらいなら、その原作使わなきゃいいじゃん。

他人の褌で相撲をとっといて、貸してくれた人に「褌って時代遅れですね。っていうか相撲つまんないんで、ボクシングしました」って言ってるようなものだ。

 

以前、アガサを騙したホームズむかつく、みたいなことをブログに書いて、その時代背景も考慮しなくては、とコメントをいただいたことがあった。私は「現代人の立場からの意見があってもいいはず」という旨の反論をしたが、私の書いた文章にも「やな感じ」があったのかもしれないな、と思う。私がホームズを批判しても弱い者いじめにはあたらないだろうが、後出しはいつだって、ある程度卑怯だ。

時間が経っているからこそ気づけることもあるから、後出し自体は悪いことじゃない。でも、現在の自分の価値観だけを基準にして、過去の物事を公然と笑い者にするのはやっぱりみっともないことなのかもしれない。

とはいえ、「みっともなくない」ことだけに拘泥していては、何も言えなくなってしまう。そのままの自分を見てもらうのも、表現ということなのだろう。

よく考えてから口を開く、というのは、いくつになっても自戒しなくてはいけないことだと思う。

みっともない、とかやだな、と人に思われないためではなく、自分で自分をそう思わなくて済むように。

 

2015年

8月

02日

感想を言わずにはいられない

読書感想文の季節である。

私は物心ついた頃から本を読むのが好きだった。しかし、読書感想文を書かされるのは苦痛だった。

大人の期待に応えたい一方で、どう書けばいいのかまるでわからなかった。お手本を理解して取り入れる賢さもなければ、心のままに綴るような奔放さもなかった。

 

自分でも不思議なのだが、感想文を書かなくてもよくなった今、何故か頼まれもしないブログを綴っている。

人の感想を読むのも大好きになった。感想を書いたり読んだりするということが、いつの間にか小説や映画を楽しむことの一部になっている。

 

『マッド・マックス~怒りのデス・ロード』は、感想や考察を誘発する映画だ。さまざまな人がそれぞれの視点から感想を書いてネットにアップしている。

最初は大興奮!とかすげえええ、とかV8!V8!とか、「単語の感想」を言いたくなるが、だんだん「自分はこの作品のどこに惹かれたのか」と考えさせられる。人の感想を読んでなるほど、と思い、もう一度映画館に行く。即効性のアドレナリン誘発剤のような映画と思わせておいて、実は遅効性の毒も仕込まれていて、あっという間に中毒にさせる。

二種類の毒の正体は、すでに語り尽くされていると思うが、手っ取り早く言うと「キャッチーさ」と「奥深さ」で、どちらかだけではダメなんだろう。

「薄っぺらい作品」という表現は、入口が一つしか見当たらず、入ってもその先がなかった、という気持ちの表れだと思うが、この映画においては、背後に作りこまれた世界の発露としてのかっこよさ、かっこよさに説得力をもたらす世界観が相互に作用して、きれいな立方体として結晶している。あらゆる面にファンが取り付き、よってたかって研磨することで何面体にも進化し、最後には球体になる(それって、もはや宗教かもしれないが)。

 

私がどんな入り口から入って何を感じたかも書いておきたい。

私の住んでいる地域はおそらく日本で一番暑く、もし冷房がなかったら、体力のない者から順に死ぬ。子供のころは「贅沢品」だった冷房が、もはや生命維持装置である。

熱中症癖のある私は、ぼーっとした頭で「電気代が払えなくなった時が私の寿命かもしれない」と考えてしまう。

大げさに聞こえるかもしれないが、暑さには逃げ場がない。サウナに閉じ込められたような不快感がどこまでも続き、体力も思考力も落ちていく。頑健な体を手に入れるか、対価を支払って生命維持装置のスイッチを入れない限り、生き延びることはできない。「冷房を適切に使ってください」ってなんだ。使えないなら死ねと言うのか。これって既に立派なディストピアじゃないか。私たちは、最悪の未来に向かって緩慢な自殺を続けているんじゃないか。

 

『マッド・マックス』はディストピアをかっこよく描いていた。

過去の人たちが犯した過ちのせいで短命にされ、搾取者への妄信にすがって生きている人たちをかっこよく描いていた。その絶望的な状況を打破しようとする人たちをかっこよく描いていた。ついでに独裁者たちまでかっこよく描いていた。彼らの圧倒的な生き様を見てしまったら、漠然とした不安など吹き飛ばされる。

『マッド・マックス』を観た帰り、電車の暗い窓に映る私は、ほんのちょっとだけフュリオサ大隊長だ。

げっそりした、将来を悲観した、他者への不満ばかり募らせた中年のおばちゃんじゃない。静かな怒りに満ち、状況に負けない意志と弱い者を庇う覚悟を持った、背筋の伸びた中年のおばちゃんなのだ。

そういう風に人を鼓舞する映画って、やっぱりすごい力があるのだと思う。 

2015年

7月

18日

局力が欲しい

友人たちとショッピングモールを歩いていた時、一人が荷物を紛失した。

案内所には人形のように可憐な女性が座っていて、遺失物センターに問い合わせをしてくれた。その間、私たちの目は彼女の完璧なメイクに釘付けだった。

忘れ物はすぐに見つかった。しかし受け取りの手続きは煩雑で、案内嬢のちょっとした手違いのため、さらに面倒になった。

帰り道、私と友人たちはふざけて「お局様トーク」を始めたのだが、「睫毛盛ってる暇があったら○○してくれないかしら」みたいなベタなフレーズしか出てこなくて、ちょっと愕然とした。

 

いい年こいて、我々には「局力(つぼねりょく)」が全くない。

 

以前書いた「びじゅチューン」に「お局のモナリザさん」という歌がある。

人気作家・柚木麻子の小説を映像化した「ランチのアッコちゃん」というドラマも、最近まで放映されていた。

どちらにも、戯画化された「お局様」が出てくる。共通するのは、仕事ができ、社内を熟知していて、後輩に厳しい(そして実は優しい)こと。冴えわたる厭味、謎に満ちたアルカイック・スマイル。

 

女同士の友人関係において、昔から私は面倒を見られる側だった。

そんな私と長年付き合っているくらいだから、友人たちは後輩に厳しそうでは全然ない。おそらく、優しい先輩だと思う。 

私はわりとずけずけ言う方だが、あまり周りが見えていないし、謎めいてもいない。ボケかツッコミかで言えばボケだ。後輩が育ったとしても、先輩のおかげですなどとは毛ほども思われてない、そういうタイプだ。

 

チームで働くのに必要な人材とは何だろう。

信頼され、決断力のあるリーダー。実務をまとめるサブリーダー。そして、ドラマでは大抵「お局様」がいる。

サブリーダーを兼ねていることもあるが、お局はただのサブリーダーではない。批判ができ、状況によっては嫌われ役も引き受け、しかし愛情を持ってチームを支えることができる。

人は人に好かれたいものだ。嫌われることを厭わない、というのはすごく精神力のいることだ(もちろんただ単に嫌われるのではなく、『チームのためを思ってあえて嫌われる』という場合に限るが)。

困るのは、精神力が育っていないのに、年齢と立場だけどんどんお局ポジションに近づいていることだ。無邪気キャラでいるのは、年齢的にも、仕事上の経験値から言ってもアウトな気がする。しかし局力がないままお局的な言動をしても、それはただのイヤな女だ。

 

女の子からお局になる段階で、母親と言う立場を経験していれば違ったのかもしれない。母親は、子どもから嫌われないという自信のもとに、時に嫌われ役をすることもあるだろう。絶好の局実習だ。

独身女性が多いことを考慮して、ある程度の年齢に達したら、研修をしてくれないものだろうか。局の。

しかし、されたらされたでセクハラだと騒ぐのが我々だ。もうちょっと個々の自覚に訴える感じで、女性誌で「局特集」とかやってくれないか。「愛される局になる!」とか。愛されちゃだめか。

いっそのこと『TSUBONE』とか創刊してくれたら、私は買うぞ。「この一言がオフィスを変える!絶妙な厭味とそのフォロー」特集とか、「クール系局VSお母さん系局・一週間着回しコーディネイト」企画とか、食い入るように読むぞ。創刊号の付録は、ロッテンマイヤーさんの眼鏡がいい。

局という言葉が悪いのかもしれない。男性しかいない職場でも、女性でいうお局にあたるポジションの人が要るはずだ。

TSUBONEに代わる、親しみやすい名称を次の会議までに各自考えてくるように。下半期の査定に響くので、そのつもりで。

 

 

2015年

5月

30日

鑑賞という芸術

つい先ほど、「びじゅチューン」DVDをamazonで購入した。

 

「面白いな」「もっと観たいな」「手元に置きたい」という動機でDVDを購入したことは、これまでにもある。しかし、今回はちょっと違って「あんたの才能に、私はお金を払う!払わせてくれ!」というニュアンスがある。

 

3000円足らずでパトロンヌ気分かよ、と言われそうだが、ワーキングプアの私にそんな錯覚を抱かせてしまう井上涼という人はすごい。

何度もブログの日記欄に書いているが、もともと「びじゅチューン」は好きだった。しかし私の経済状況では、テレビやネットで鑑賞できるものをわざわざ購入する余裕はない。DVDも買う予定はなかった。

 

パトロンヌ気分が爆発したきっかけは、「紅梅図屏風グラフ」という作品だ。

それまで私のベストワンだった「樹下鳥獣図屏風殺人事件」では、方眼状に区切って彩色された絵 をパズル(謎)のピースに例えていた。そこまではまだわかるが、梅の枝が折れ線グラフに、敷き詰められた正方形の金箔がグリッド線に見えるって。あんた天才か。天才だろ!

 

私は読書が好きだし、美術館に行くのも好きだ。

でも、作家や画家を「天才」と表現したことはない。

単純に、わからないのだ。誰が天才で、誰が天才じゃないか。どれがすごくて、どれがすごくないのか。確信を持って言えるのは、「好きか嫌いか」だけだ。

井上涼を「天才だ」と言ってしまえるのは、「鑑賞する者同士」でもあるからだと思う。同じ作品を見ても、私はあの屏風に折れ線グラフを見出すことはできない。ゆえに井上涼はすごい。心から尊敬する。

 

創作者としての彼が天才か天才じゃないかは、断ずることができない。「びじゅチューン」は大好きだし、彼の歌は毎日口ずさんでいるし、発想も表現力も素晴らしいと思うけど、仮に「美術を歌にする人評論家」が現れて理路整然と「びじゅチューンがすごくない理由」を述べたとしたら、反感を抱きつつも「そうですか」と言ってしまうかもしれない。私は創作者じゃないから。ぶっちゃけよくわかってないから。

でも、もし「仕事をする」こととか「ブログを書く」ことが創作のはしくれであるならば、私は井上涼のような創り手になりたい。

「びじゅチューン」は一応教養番組だと思うが、難しい理屈など一切出てこない。紹介する作品を、彼の目で見て、彼が面白いと思い、そこから産まれてきたものだけが、ばーんと叩きつけられる(感触としては、ふにゃっと差し出される)。

 屏風絵が折れ線グラフ、というのは「正しい解釈」では絶対にないだろう。しかし、正しさが何だというのだ。そんなもんちょっと検索すればいくらでも出てくる。

彼がそれぞれの作品を深く理解し、広範な知識を持っているという事実は、作品の端々から読み取れる。しかし、知識の切り貼りや既存の解釈の羅列は、人を惹きつけない。

「びじゅチューン」が教えてくれるのは、美術の知識ではなく、鑑賞という行為の楽しさそのものだ。創作も、鑑賞も、本来は個人の楽しみであると思う。そこに他人を巻き込むことができるのは、やっぱりすごいことなのだ。

私も、小理屈を唱えなくても本質を伝えられる仕事をしたいし、「物知りなブロガー」よりも「ドラマ鑑賞や読書の愉しみを伝えられるブロガー」になりたい。しかしそうなるには知識を得ることが大前提なので、仕事関係の皆さまにもブログでお世話になってる皆さまにも引き続きご教示賜りたく思います、と土下座する次第であるわけだが。

 

ところで、初版分には、DVDについているハガキを送ると井上涼が好きなキャラクターを描いて返送してくれる、という、後世の人が聞いたら泣いて悔しがりそうな特典がついていたそうだ。

もし描いてもらうとしたら、誰を選ぼうか。

機嫌のよい時「かみがた~をかえたい~の♪」と思わず口ずさんでしまうのに収録されなかった「ファッショニスタ大仏」をお願いして、次巻への収録希望をアピールするか。正統派美少女「真珠の耳飾りのくノ一」で行くか。好きなキャラは「アイネクライネ唐獅子ムジーク」の作曲家コンビなのだが、描線が多くて描くのに時間がかかりそう。リクエストはたくさん送られてくるだろうに、うっとおしがられないだろうか。

……たかが購入特典なのに(しかも実際もらうわけでもないのに)、「このキャラクターを選ぶとは、わかってるな」と井上涼に思われたい、という自意識がバリバリに働いている。

自らの意思を表明するという行為は、どんなに小さなことでも、表現の始まりなのだろう。

 

 

2015年

4月

29日

YOUは何しにギロッポンへ

六本木という街には、働くようになって初めて出入りするようになった。

アメリカ人の同僚に連れられて、T.G.I.FRIDAYに行ったのが最初だった、と思う。

以来、赤坂、六本木界隈は、何かにつけて「初めての体験」をする場所になった。体験型レストランに行ったのも「NINJA」が初めてだったし、初めてマーティン・フリーマンを見たのも、「観客が歌う映画」を観たのも六本木ヒルズだ。お金持ちが多そうな雰囲気に気後れして、「何かないと行かない」というのが正直なところかもしれない。

そんな気後れの街・赤坂や六本木で、唯一リピーターになったパブがある。リピーターと言っても群馬に住んでいるので両手の指に足りない回数だが、なんとなく落ち着ける場所で料理もおいしいので、遠方に住む友人たちとの集合場所のようになっている。がやがやしている上に周りの会話が英語なので、日本語である程度気兼ねなく萌え話ができるのもいい。

先日も利用した。Rさん、Lさんと私の3名で入店しようとすると、店員さんが「イベントをやっているが、構わなければ」と申し訳なさそうに告げた。

真冬で、外は雨降りで、お腹は空ききっていた。それに気を遣われないことこそが私たちにとっての利点なので、全くもってノープロブレムである。構わん構わん、と意志表示すると、店の真ん中にあるテーブルに通してくれた。

食事より、酒や調味料を置くのが目的という感じの、丈が高く天板が二段になっている、小さな丸テーブルだ。着席すると、向かいに座るRさんの顔が、一段目と二段目の間に顔を差し入れて覗かない限り見えない。座ってくつろぐよりも、伊達男が肘をかけてもたれかかっていたり、吹っとばされた男になぎ倒されて、周りの客が悲鳴を上げるような場面が似合いそう。

しかしまあ、なんとか食事はできる。使用面積は小さくても、二段あるからお皿は倍乗るし。気にしないことにして飲み物を注文していると、けたたましくホイッスルが鳴った。

客の全員、いや半分が、さっと席を立つ。立ったのはいずれも男性、残ったのは女性だ。よく見ると、私たち以外の全員が名札をつけている。

我々3人の丸テーブルを世界の中心として、時計回りに男たちの大移動が始まる。さっき申し訳なさそうだった店員が声を張り上げ、「次のホイッスルは15分後」と告げる。

 

初めてだが間違いない。これ、お見合いパーティーだ。外国人の。

おそらく外にもお知らせがあったろうに、ちゃんと見ずに入店したこちらが圧倒的に悪い。悪いのはわかってるが、言わせて欲しい。

 

断れよ!

 

かくして、15分おきにホイッスルが鳴り響く中、私たちは飲み食いを堪能し、人にうるさがられる心配全くなしに(周り皆それどころじゃない)、マッツ・ミケルセンやリチャード・アーミティッジへの愛を伸び伸びと語りあったのだった。

時々名札を付けた男性が陽気に飛び込んできては、全ての椅子が(若干お姉さん気味の)女性で占められてることに戸惑いを隠さなかったり、隣のテーブルのエリカ(仮)をボブ(仮)が席を離れた後も狙ってるのにエリカ(仮)はユージーン(仮)に惹かれてるのが丸わかりでこっちがハラハラさせられたりしたが、それもまた良い思い出である。

他人の恋愛模様の情報が一方的にインプットされ過ぎて、アウトプットするべく近くのコーヒーショップで自主反省会を行わずにはいられなかったが……。


そんなこんなで、就職したての頃から今に至るまで、六本木は新しい何かが起こる街であり、未体験のことだってまだまだあるのだ。

とりあえず「いい年してふらふらしてないで、婚活しろよ」攻撃に対し「お見合いパーティーに参加したことならあるんですけどね~」とにっこり笑う、という迎撃パターンがひとつ増えた。めでたし。

 

2015年

3月

10日

スネ夫のママのケーキ屋さん

そのメールは、年に2回か3回やってくる。

文面はいつも同じで、至ってシンプルだ。

 

「例のアレ、そろそろどうですか」

 

私の返信も大抵同じ。

 

「了解。いつものメンバーでいいですか。連れてきたい人がいたら人数を教えてください」

 

金曜が来ると、私は残業せずに早めに職場を出る。仕事が残っていたとしても、翌日に休日出勤すればよい。

帰宅したら、簡単な料理を作る。ショートパスタとか、ピザとか、ワカモレとか、あまりお腹がいっぱいにならないようなもの。

6時くらいになると、職場の仲間がスナック菓子や飲み物を携えてやってくる。軽い夕食をとりながら、職場の愚痴を言い合う。金曜ロードショーでジブリ映画がやっていたら必ず観る。ジブリのキャラクターと付き合うなら誰がいいかとか、くだらない話をダラダラとする。

映画が終わると、私はおもむろに湯を沸かし、紅茶やコーヒーを淹れる。この辺りで、子育て中のメンバーが子供を寝かしつけ終えて集まってくる。本番はここからである。

メールをくれた友人が台所から大きな紙箱を持ってきて、解体する。開けるのではなく、側面をはずして文字通り解体するのだ、箱は一枚の展開図になり、色とりどりのケーキが現れる。

歓声。キレイ、かわいい、おいしそう。

ケーキを選んで買ってきてくれる友人は、地元で有名なパティスリーの近所に住んでいる。旬のフルーツがたっぷり使われていたり、動物を模していたりと、どのケーキにも工夫が凝らされている。シーズンごとにたくさんの種類のケーキが出てくるので、網羅するにはこの「ケーキ会」が一番いい。

切り分けたりせず、四方八方からフォークを入れて食べる。下品かもしれないが、少しずつメンバーを変動させながらも、もう何年も続いている習慣だ。こういうケーキは一人ではなく、分け合ったり、SNSにアップしたりと、人と感想を共有しながら食べるのがいい。

深夜に甘いものを食べる背徳感と、明日は休みというささやかな幸せに浸りながら、眠くなるまで雑談を続ける。飲み会とはまた違った楽しみである。

 

実は、先輩に教えていただいたお気に入りの店がもう一つある。

先輩曰く「三角のケーキしかない」小さな店だが、入るとふわっといい匂いがする。クッキーやシュークリームのチェーン店から漂うこれ見よがしなバターの匂いとは違う、バニラのとも、洋酒のともつかない甘い香り。「ケーキ屋さんの匂い」としか言いようのない匂いだ。

ケーキは8種類ほどしかなく、もう見事に「想像通り」のケーキばかりだ。ショートケーキ、と聞いて10人中10人が思い浮かべるような形のショートケーキ。チーズケーキもプリンもそうだ。でも、チョコレートケーキにはお酒がしっかり効いているし、アップルパイのリンゴは甘過ぎず大振りで、ぎっしり詰まっている。どのケーキも、それぞれきちんとおいしい。端正な味がする。

このケーキに似合うのは、一人暮らしのアパートではない。海賊が町を襲うようにフォークを振るう女たちでもない。

ズバリ「応接間」だ、家具調テレビの上にレースかかってるみたいな。黒電話にカバーかかってるみたいな。飲み物は砂糖壺まで揃いのティーセットで淹れた「お紅茶」で決まり。スネ夫のママみたいな上品な夫人に淹れてもらえれば完璧だ。

テストで100点をとったスネ夫のように、ささやかないいことがあったら、私はこのケーキ屋さんに行きたい。応接間はないけれどきれいに片づけた部屋で、ティーセットはないけれどちゃんと手順を踏んで紅茶を淹れて、うやうやしく箱から取り出したケーキを皿に載せ、正座して食べたい。

その際SNSにアップはしないが、スネ夫のママの物まねは絶対にすると思う。

 

 

2015年

3月

01日

赤く塗れ

Blogというのはそもそも「自分が気になったニュースやサイトなどのURLを、寸評つきで紹介した英語のウェブサイト」だったらしい(Wikipedia)。「21世紀探偵」ではSHERLOCKのことばかり書いているが、そこで出会った方々のブログを拝読していると、SHERLOCKのこと以外にも、ブログ主さんが興味を持ったことが色々書いてあって、非常に面白い。現在YOKOさんがハマっていらっしゃる「イングレス」なんて、職場とアパートとスーパーマーケットしか行かない自分には全く縁がないが、YOKOさんが陣地を増やしていくさまを見ているだけで手に汗握る。「ラインハルト様、宇宙を手にお入れください」という心境だ。さすがのYOKOさんも群馬にキルヒアイスがいるとはご存知なかろう。キルヒアイスと違って役に立ってるわけじゃないし。

ドイルの外典発見事件でリンクさせていただいたTomoさんは海外を飛び回るお仕事をなさっていて、ブログもその行動範囲に連動するかのようにさまざまな話題に満ちている(実はかなり昔からファンだった)。

3月1日現在のTomoさんの最新記事で紹介されたのが、「行った国を赤く塗りつぶす」サイト

Tomoさんはお仕事で50か国以上に行かれたそうだ。

私は旅行にもほとんど行かないので真っ白だろうな、と思ってやってみたら

意外と赤かった……

 

しかしこれにはトリックがある。

まず中国。職場の慰安旅行で、2泊3日で香港に行っただけである。そんだけでこの塗られっぷり。

アメリカは、仕事関係の資格を取るためにカナダにいた時に、バスでちょっと遊びに行っただけだ。何アラスカとか塗っちゃってんの、その上の方の島々も知らないから!ぶっちゃけ名前すらぱっと出てこないから!

アルゼンチンに至っては、ブラジルからイグアスの滝を見に行った時にちょこっと「アルゼンチン側」に回っただけだ。確かに国境は越えたし、パスポートも出したが、滞在時間2時間くらいじゃないか。そんなんでいいのか、塗っちゃって。

見た目の印象としては小さいが、日本列島がまるまる塗られてるのも感覚的にはとんでもない詐欺である。告白するが、私は北海道にも四国にも九州にも沖縄にも行ったことがない。基本的に関東ひきこもりだ、ハロー。

 

というわけで内情を告白すると(しなくても)、Tomoさんの50ヶ国には及びもつかないのだが、何だろう、この「塗りつぶす」気持ちよさは。なんかもう、内容が伴わないとかどうでもいい。赤けりゃいいんだ赤けりゃ。今、私はラインハルトだ。我が征くは星の大海。

 

……気付いてしまったのだが、人はこういう心境の時に「三大陸の婦人」とか言っちゃうんだよな、多分。

 

2015年

1月

31日

不用意な想像

「SHERLOCK」に関することは「21世紀探偵」の方に書くべきなのかもしれないが、なんとなく(より個人的な雑記である)こちらに書きたい、と思うことがある。

それは特に共感や承認を求めていない……いや、だったらネットに書かなきゃいいので承認欲求はそれなりに伴っているものの、どちらかというと「問いかけたい」よりも「吐き出したい」という動機によって書いた文なのだと思うが、その分類基準は自分でもよくわからない。

しかし、この記事をこちらに書いた理由ははっきりしている。「腐女子」的だからだ。

とはいえ、私はシャーロックとジョンが性的な関係を持つことにも、「腐女子」と呼ばれることにも抵抗はないつもりだ。

「腐女子」とは、「そういう見方」しかできない人、という目で見られがちだが、私の知る「腐女子」たちは、対象を鑑賞するうえで「腐女子的な視点」と「そうでない視点」を巧みに使い分けていると思う。鑑賞眼のチャンネルが一つ多い、とでも言おうか。

何と呼ぶのかは知らないが、女性同士の恋愛に「萌える」人たちにも同じことが言えるだろう。部外者の嫌悪感と本人たちの自虐的な自己演出が相まって必要以上に反社会的な存在になっているのは、色々な意味でもったいないことだなあ、と思う。性的なことに関する言動に理性が求められるのは、異性愛者も同じことなのに。まあ、反社会的な世界だからこそ惹かれる人もいるのかもしれないが。

いずれにしても、性に関することは生理的な嫌悪感に直結している。腐女子と思われるのが嫌なわけでも、腐女子が嫌いなわけでもないが、そういう話題への「心の準備」のない人の居心地を悪くするのは不本意なので、やはりこの記事は「日記」に書きたいと思う。

前置きが長くなった。「21世紀探偵」の記事も内容がシャーロックとジョンの関係性に偏っているので、見る人が見れば十分に「腐っている」と思うが、ここではストレートに二人の間の恋愛感情について書きたい。

そこに触れない限り、あの場面が解釈しきれないと思うからだ。

 

結婚式前夜、色々あって二人はひどく酔っぱらっている。つまり、言葉の上での駆け引きができない、少なくともそれが困難な状態になっている。

スタグナイトだから律儀にそうしているのだろうが、二人はパーティーゲームを始める。初級英語の授業でもやるような、単純極まりないゲームだ。

まず、物や人の名前を書いたカードを額に貼る。貼られた本人には、自分に何のカードが付けられたのかわからない。周りの人間に質問をして、「自分は誰なのか」を導き出す。

独身最後の夜に二人にこのゲームをさせるのは、お互いについての思いを正直に述べさせるためだろう。相手にとって、自分は何者なのか。どういう存在なのか。それを確かめ合う場面だ。

 

シャーロックの額には「SHERLOCK HOLMES」と書かれたカードが貼られている。ジョンが書いたカードだと思うが、おそらくこの場合の「シャーロック・ホームズ」はシャーロックの名前というよりも、有名な探偵としての「シャーロック・ホームズ」であり、"The Empty Hearse"のラストシーンで、記者会見に臨むシャーロックが帽子をかぶって「さあ、シャーロック・ホームズになる時間だ」と言った方の「シャーロック・ホームズ」だ。

「シャーロック・ホームズ」言い過ぎて何が何だかわからなくなってきたが、二人が改まって「シャーロック・ホームズ」と言った場合、それはシャーロックが事件を解決し、ジョンがブログを書くことで二人が作り上げた「シャーロック・ホームズ」という人物像なのだ。

しかし、ジョンは作者の片割れであるにもかかわらず、「シャーロック・ホームズ」を理解しきれていない。彼にとってそれは、依然としてシャーロック自身でもあるから。

もちろんシャーロックにも理解しきれない。ジョンの語る「シャーロック・ホームズ」像を聞いて「それは君だ」と結論付けたのは、おそらく本心だろう。「シャーロック・ホームズ」の半分は「ジョン・ワトスン」なのだから。

未完成のままの「シャーロック・ホームズ」をシャーロックに残して、ジョンはシャーロックのもとを去ろうとしている。見ようによっては、とても残酷なことであるが、誰も断罪はできない。

「犯人」は一人もいないのに、悲しいことが起こる。この世界ではそういうことがたびたび起こるが、この二人には解決できない。犯人がいて、事件が起こって、依頼人が来ないと「シャーロック・ホームズ」は何もできない。ある意味では、とても無力な存在だ。

 

ジョンの額には「MADONNA」というカードが貼られる。

有名な歌手の名だが、当然、崇拝の対象となる「聖母」も連想させる。

"His Last Vow"でマグヌッセンはジョンをシャーロックの「damsel in distress(嘆きの乙女)」と表現する。これまで多くの人を「誤解」させてきたが、本人が否定しても、周りの見方ではジョンはシャーロックの「恋人」なのだ。

そもそも、友情と恋愛の境目とはなんだろうか。定義するのは難しい。人間関係の定義は本人たちの主観次第だが、時に客観のほうが本質をついていたりする。

ジョンはシャーロックに"Am I a woman?""Am I pretty?"と問いかける。

異性愛者のジョンが発した場合、Am I a pretty lady?という問いは、「(男性である)君にとって、僕は恋愛対象になり得るのか」という質問にも受け取れはしないだろうか。

シャーロックの答えは "Beauty is a construct based entirely on childhood impressions, influences and role models."

「美とは子ども時代に受けた印象、影響とロールモデルで 決まる概念だ」

と彼らしいが、どんな意味においてもジョンの質問に答えていない。酔っているせいか、それとも、わざと答えていないのか。

そもそも、数年にわたる付き合いにおいて、この二人は恋愛やセックスの話をしたことがあるのかな、と考えてしまう。A Study in Pinkのアンジェロの店の場面で、ほとんど初対面に等しい二人がお互いを探り合う場面はいかにも遠慮がちだった。ジョンには次々にガールフレンドができ、シャーロックはそのことを正確に把握しているが、妨害しようという意図は見えない(結果的に邪魔してしまうことはあるが)。シャーロックとアイリーンの関係においても、ジョンとメアリの関係においても、二人はお互いの恋愛について否定も肯定もしない。というより、お互いその領域に踏み込むのを避けているように思える。原作でホームズがワトスンの結婚に「おめでとうは言わない」と言ったように、あるいはワトスンがホームズとハンター嬢のロマンスを願ったようには、踏み込まないのだ。それは、男性同士の友人関係において、一般的なことなんだろうか。シャーロックが女性に興味を示さないことを差し引いても、デリケートというか、わりと気を遣ってるんじゃないだろうか。

もちろんドラマに映ってない場でガンガン猥談してた可能性もあるけれど、少なくとも確認できる限りでは、そういう話題を持ち込むことに関して、二人は過剰に清潔だ。

そういう背景を踏まえて見ると、この場面はちょっと際どい。ジョンもシャーロックも「気遣い」を捨てて、かなり無防備な姿を相手に晒す。じっと相手を見つめたりもする。ジョンはより率直に、シャーロックはより素直になっているように思える。

ジョンはいきなり"Am I a vegetable?"(僕は野菜か)と問いかけるが、vegetableには異性愛者という意味もある。シャーロックはおそらく「二つの意味」を捉えていて、"You or the... thing...?(『君自身か、それともそこに書かれていることか』)"と反応する。また、よろけたジョンがシャーロックの膝を掴んでしまうが、シャーロックはわざわざ"I don't mind."と言う。ちょっと、妙な空気ではないか。さっきまで折り重なって階段で寝てたのに……

 この夜、二人が恋愛関係に転んだ可能性もあったのかもしれない。おそらく無意識にだと思うが、ジョンは、友情よりも恋愛を選んで去っていく者として、最後のチャンスをシャーロックに与えたのかもしれない。シャーロックにもまた、同じような意図があったのかもしれない。

いずれにしても、二人がそうなることはなかったわけだが。

 

ここに書いたことをこの脚本を書いた人たちに問いかけたら、巧妙に否定されるだろう。「シャーロックとジョンの間に恋愛感情はない。想像するのは勝手だがね」というのが賢い彼らのスタンスだから。

でも彼らは、私たちが知っていることを知っているはずだ。そもそもこの作品は「想像する」ことから生まれたと。

自分にない想像を持った人を糾弾するのも、カテゴライズしたりされたりすることで優越感や自意識を持つのも自由だ。しかし、どんな想像であれ、想像をした時点で私たちは皆「共犯者」なのだ、と思う。

2015年

1月

05日

誰かの幸せを祈るということ(映画『ホビット』」3作目感想)

私は、トールキン作品が苦手な子供だった。

意外な展開よりも予定調和を望む、自分の理解の範疇外に物語が転がっていくのを恐れる、そういう子供だった。

私の「常識」では、主人公は竜を倒して宝物を取り戻さなくてはならない。

湖の町の人たちは、勇敢なドワーフたちに協力しなくてはならない。

ビルボはドワーフたちと仲良くなったのだから、エレボールでいつまでも幸せに暮らすのだ。


しかし、この物語はそんな風に綺麗に収まってはくれない。

トーリンは死に、湖の町は焦土と化し、ビルボの家財道具は競売にかけられる。ついでに言わせてもらえば、私自身の人生も王子様に出会ったり大金持ちになったりしてハッピーエンド、というわけにはどうも行かなそうである。


負け惜しみかもしれないが、幸せでない、ということは、いいことでもあるのだ。幸せの外にいると感じるときにだけ、幸せというものの形が見えるからだ。

物語はいつも、幸せの外に転がり出てしまった人たちが、幸せを掴む、あるいは取り戻すために始まる。

その願望は「欲」と呼ばれることもある。欲は人を動かしてくれるが、時にひどく人を苦しめる。

欲の対極にあるものは、自分ではない誰かの幸せを祈る、ということなのかもしれない。


自らの中に潜む欲に打ち勝ったトーリンは、ビルボに「本や肘掛椅子が待っているぞ」と告げる。

かつてビルボが「君たちの気持ちがわかったから、手伝いがしたい」と言ったように、トーリンもビルボの望みがわかっていた。わかっていただけではなく、共感し、叶えてやりたいと思っていた。本来の彼は、そういう人だった。


初めにそれを見せてくれたのは、ドワーフの一人であるボフール。

彼は、王族ではなく、戦士ですらない。しかし、自分たちに不信と不満を抱いて逃げ出そうとするビルボに、何の迷いもなく「幸せを祈ってる」と言ってやれるという美点を持っている。

ボフールの優しさが、ビルボを変えた。変わらなければ、ビルボはトーリンを救えなかった。

結局、すべてはつながっている。

そして、次の世代へも続いていく。

前の世代がかなえられなかったことを、次の世代がかなえていく。

自分と全然違う人でも本当に大切に思える、つまり無私になれるというのがこの作品のテーマのひとつだとしたら、異種族の二人がお互いの幸せを祈る、というのはその究極の形かもしれない。

ビルボとトーリンの友情、キーリとタウリエルの恋は悲しい結末を迎えたが、それを見ている人がいる。伝え聞く人もいる。ビルボやタウリエルの悲しみは、レゴラスとギムリの友情や、私のまだ知らないたくさんの登場人物の幸せというかたちで報われるのだろう。どんぐりが芽吹いて、大きな木になり、たくさんの実を結ぶように。

そのどんぐりとは、ボフールの優しさのように、素朴な、小さな、どこにでもある、しかし何よりも尊いものなのだろう。

2014年

10月

18日

「SHERLOCK」の「居心地悪さ」

北原尚彦著「ジョン、全裸連盟に行く」を読んだ。

とても楽しかった。事件の構造がドラマよりしっかりしていると感じた。シャーロックとジョンのやりとりも軽妙で面白い。

個人的に嬉しかったのは、読んでいて心地良かったことだ。

ホームズの舞台は  ロンドンの下町、テムズ河、ダートムアの湿地と多岐に渡るが、221Bというホームがある。どんなに陰惨な場面でも、暖炉に火があかあかと燃え、お気に入りの椅子にかけて煙草をふかしたり、本を読んだりしているホームズやワトスンの場面に戻ってくるという、安心感がある。

どんな事件でも、ホームズはちゃんと解説してくれる。そして、ワトスンは読者と同じように、「ちゃんと、わからない」。

スマートフォンやインターネット、ネットスラングは「SHERLOCK」の時代のものでも、この作品は「正典」のコージネスを受け継いでいる。

 

ここに、ドラマ「SHERLOCK」とこの作品の違いが見えてくる。

「SHERLOCK」はどのエピソードも必ず「クリフハンガー」または新たな脅威、新たな謎を提示しながら終わることに象徴されるように、わざと視聴者を「居心地悪く」させている。

 

私は第1シリーズから第3シリーズまで、原作とドラマを見比べ、ドラマがどの程度原作を踏襲しているか考えている。非常に拙い作業ではあるが、ひとつわかったことがある。それは、「元ネタ探し」にゴールがない、ということ。かっちりと、綺麗にピースがはまるようには作られていないのだ。

 シャーロックは原作のホームズをモデルにしてはいるが、ホームズの性格はマイクロフトにも振り分けられている。いわゆる「ワトスン役」の枠を超えた活躍をジョンが見せることもあるし、ワトスンの役割をレストレードが担っていることもある。メアリに至っては、原作よりオリジナル要素の方が上回っている。単純に原作の登場人物を引き継ぐのではなく、性格の一部分を増幅させたり、解体・結合させて、新たなキャラクターを作っているのだ。

エピソードの扱いにも同じことが言える。

「ピンク色の研究」の元ネタは一応「緋色の研究」とされているが、単純に一つの作品が一つの作品の元ネタであるわけではない。どの作品も細かく解体され、再構成されている。

フランケンシュタインの怪物のように、切り刻まれ、不穏なかたちに造形されているのだ。原作を知っている者も、知らない者と同じ不安感を持って観なくてはならない。

 

原作の持っている安定感を崩す一方で、不安定さは再現しようとする。

ワトスンの名前や傷の位置の矛盾に合理的な回答を提示して見せたりもするが、時系列の矛盾やシャーロックのサバイバル方法、ジョンのブログに散見される「語られざる事件」などは、わざと曖昧にしてある。そういう部分にファンが躍起になるのを、確信してのことだと思う。

 

そして、「作り方」。第3シリーズではジョンの妻やシャーロックの両親に俳優の実際の家族をキャスティングしたが、あれは冒険だったのではないだろうか。イギリスのショービズ界の空気は良く知らないが、どれだけスタッフが「役に合っているから配役したのだ」と言い張ろうと、俳優のプライベートを持ち込むのは、「作品の質の追及を放棄した」という誹りを免れないはずだ。個人的な感想を述べれば、フリーマンのパートナーもカンバーバッチの両親も好演だったとは思うが、「この役は絶対に、この人でなければダメだ」とまでは感じなかった。

これだけの名声を得ておいて、なぜ、あえて「おままごと的な」ことをするのか。人気に胡坐をかいている、とも、逆に話題作りに必死になっている、とも言われているだろうが、その目的は好意的な評価を振り払うこと自体にあったのではないか。

その根底には、シリーズを重ねても「名作」になりたくない、視聴者の期待を良くも悪くも裏切り続けたい、という、ひねくれた中学生のようなマインドがあるのではないか、と邪推している。

(悪いことだとは全然思わない。ひねくれた中学生の素養なくして、誰が『ホームズ』を愛するものか)

「ひねくれ」とは、「最高傑作」と称される正統派グラナダ版ホームズへの反骨精神かもしれないし、逆に、そのポジションを尊重したいという敬意の表れかもしれない。アメリカPBSで放映された時のファンとのチャットだったか、モファットとゲイティスはシャーロックの年齢を聞かれて「8歳」と答えた。製作者が自分たちのホームズに施した「子供」という位置づけは、そのまま彼ら自身の立ち位置を表していたのかもしれない。

 

もっとも、原作にコージネスを感じるのは、完結してから時間が経っているからであって、リアルタイムで読んでいた読者は、私たちが「SHERLOCK」に感じているような不安を感じたかもしれない。

そして、あと数十年して「SHERLOCK」が「過去の名作」になる頃、後世の視聴者はシャーロックとジョンの不器用なつながりや、どことなく殺風景な部屋にコージネスを感じるのかもしれない。

北原氏の作品に心地よさがあるのは、原作に対する読者の「居心地悪さ」を補正しようとするシャーロッキアンの視点で書かれた作品だからでもある、と思う。「居心地の悪さ」にこだわる「SHERLOCK」とは、そこが違う。

言うまでもなく、どの作品にも「ホームズとワトスンの友情」というしっかりとした軸は感じられて、そこには揺るがないコージネスがあるのだけれど。 

2014年

9月

20日

アリのままで

小学校3年生の担任教師をしている友人が、児童の日記に「ひるやすみに、●●ちゃんがアリのままをうたいました」と書いてあったという話をしてくれた。

私も、アリの巣穴を掘り返しながらこの歌を熱唱している幼児を見かけたことがある。一部の子どもにとっては、昆虫の歌として理解されていると思われる。

 

幼稚園児の頃の私は、「まっかなおはなのトナカイさんは いつもみんなのわらいもの」を「いつもみんなのにんきもの」と歌っていた。黒い鼻より、ぴかぴかの赤い鼻のほうが断然クールだと思っていたのだ。

トナカイが人気者だとすると「いつもないてたトナカイさんは こよいこそはとよろこびました」の部分に破綻が出てくるのだが、これは「容姿のみをもてはやされることに虚しさを感じ、華やかなスポットライトを浴びながらも陰では涙を流していたトナカイが、人の役に立つことで真の喜びに目覚めた」と解釈していた。当時のアイドル漫画の影響だと思う。未だに、トナカイ役は田原俊彦(※当時のトップアイドル)という感じがする。

 

「ありのままで」を「虫であることで迫害を受けながらも、本来の姿を隠さずに生きる蟻の歌」という解釈で歌ってみても、大した破綻はない。「アナと雪の女王」という邦題も、字面がちょっと「アリの女王」っぽい。どうせ『虫の歌』などと解釈している子どもはちょっと聞きかじった程度の関わりだろうから、見間違いもしている可能性は大きい。擬人化作品文化や「バグズ・ライフ」や「アンツ」などのCGアニメ作品の存在も、誤解に拍車をかける。

 

ちなみに私が「赤鼻のトナカイ」の真実に気づいたのは、大学1年の時だった。ぼんやり道の後進たちにも、「アナと雪の女王」が蟻の女王の話でないことに気づく時が来ると思うが、なるべく遅くなるように呪いをかけている。

2014年

9月

13日

月見バーガー不要論

月見バーガーに納得がいかない。

贅沢過ぎやしないだろうか。ハンバーグとパンだけでも十分おいしいし、目玉焼きとパンでも十分おいしい。


組み合わせるともっとおいしいんだよ!と月見派の友人は言うけれど、これがベーコンと卵や、チーズとハンバーグの組み合わせだったら、私も理解できないでもない。これらは、組み合わせたほうが絶対おいしい。肉や卵に、ベーコンやチーズの塩気が影響するからだ。

しかし、、目玉焼き+ハンバーグってなんだ。結局はハンバーグソースを目玉焼きに対する塩気にしているのではないか。だったら目玉焼き+ソースでよくないか。ハンバーグが入っているのは、「○○バーガー」として売るための方便ではないだろうか。


私は月見バーガーの高カロリーを憂えているわけではない。伊達にこんなコレステロール値を抱えて生きてるわけじゃない。ビバ高カロリーだ。

しかしながら、私は「贅沢」と「期待値」のバランスにはこだわる人間だ。いつからだったか我が家のハンバーグにも目玉焼きが乗るようになったが、私は固辞している。ただでさえ楽しみなハンバーグに目玉焼きまで乗ったら、それは身に余る贅沢というものだ。一回の食事に、主菜二回分。目玉焼きハンバーグに値するような生産的活動及びカロリー消費を、私がした試しがあったろうか。

それに、単純にもったいない。ハンバーグも目玉焼きも、私は大好きだ。できることなら、思う存分楽しみにしたい。

以前の上司が食い道楽で、突然ケーキを買ってきてくれたり、「今夜寿司を奢ってやろうか」などと誘ってくれる人だった。ありがたいことで、みんな喜んでいたが、私としては3日くらい前に予告していただければもっと嬉しかった。そうすれば、寿司やケーキを楽しみに、幸せに暮らした3日間があったはずなのだ。

「なにかを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分にあたる」と、赤毛のアンも言っていた。アン説に従えばハンバーグ×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)+目玉焼き×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)=2。対して月見バーガー×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)=1であり、数学的にも月見バーガーの楽しみ度が低いことが立証されている。

だいたい、現代人は快楽を追求し過ぎた結果、素朴な楽しみを忘れてしまったのだ。月見バーガーの存在そのものが我々に警鐘を鳴らしているのだ。


ここまで黙って聞いた月見派の友人は、静かに「でもアンタ、カツ丼好きだよね」と呟いた。

無論、カツ丼はおいしい。卵丼もカツもおいしいが、合わせることによって全く別物になる。カツ丼はプライスレスだ。カツ丼を否定するなんてナンセンスだ。

2014年

9月

02日

すべてが薄くなる

前回の日記のタイトルが「すべてがfになる」なのに当該作品にまったく触れなかったので、犀川先生ファンの友人Yが立腹していた。

そうだ、「すべてがfになる」が映像化するんだった。犀川先生役は綾野剛だそうだ。

まず若くないか!?と思ったが、原作が出版された時点で犀川は私より年上だったけど、考えてみればだいぶ追い越した。これからは、若い頃読んだ小説が映像化される度にそう思わされる運命である。つらい。

次に薄くないか!?と思った。綾野剛の演技が印象薄いと言ってるのではなく、顔立ちの話である。これも、原作を読んでいた当時の流行りの顔が木村拓哉だったり、福山雅治だったり、今より甘めだったせいと思われる。

考えてみれば当時の私の犀川先生のイメージはなんとなく理系っぽいという理由でおぎやはぎ(どちらでも可)だ。別に濃くもなかった。

あまり俳優さんに詳しくないので、理由がざっくり過ぎて犀川ファンにもおぎやはぎファンにも失礼だが、この理由を適用するなら、岡田あーみん「こいつら100%伝説」に出てきたニセ歯医者も捨てがたい。


薄すぎないか!?といえば、御手洗潔が玉木宏、石岡が堂本光一で映像化という噂はどうなったんだろう。

友人にコメントを求められて、ミタライはもう少しコレステロール値の高そうな顔がいい、というわかりにくい返事をして失笑を買った。その時頭の中がコレステロール値のことでいっぱいだったと思われるが、これも犀川先生に感じたのと同じ感慨だろう。

今は、線が細くてすっとして、バタくさくない顔の俳優が「ハンサム」なのだ。私も綾野剛や玉木宏の顔が大好きだが、御手洗シリーズは今までに何度となく映像化の噂があって、御手洗役は鹿賀丈史だの豊川悦司だの言われていた記憶を保持しているから、その記憶と現代の俳優さんの印象のギャップが、時差ボケのような違和感を生み出している。ベネディクト・カンバーバッチをホームズとは認めない、という意見の根底にあるのも、こういう感覚なのかもしれない。

それにしても、石岡君はもう少しうっかり八兵衛感がなくていいんだろうか。堂本光一は身体能力ばっかり評価されてる気がするが、私は『銀狼怪奇ファイル』のぽやぽやした演技が一番好きだ。どの原作を映像化するか知らないが、「あの作品」以外はあえて王子様を封印してほしい。


何だかんだで人形劇のホームズもカンバーバッチとフリーマンっぽい顔だし、SHERLOCKのヒットを受けて、すべての探偵と助手コンビが「あんな感じ」にならないか、勝手に心配している。あれは、ステレオタイプに流れず原作を誠実に受け止めた脚本を中心に、皆がそれぞれベストを尽くした結果が「いい」のであって、できあがった「あんな感じ」を真似るのではなく、そういう制作者たちの姿勢こそ真似て欲しいなあ、と思う。どちらも、そう扱われるべき原作のはずだ。

2014年

8月

29日

すべてがfになる

ダイエットをしている。

友人たちには何度めかと呆れられそうだが、とにかくダイエット中である。


健康診断の帰り道、保険センターで体脂肪率を計る機械にうっかり乗ってしまった。


体型や年齢の話は難しい。「太った」と言えば自分より重い人にキレられ、「老けた」と言えば年上の人にキレられる。しかし太るの老けるのもあくまで本人の中での比較の問題だ。

ハタチだって、本人がおばさんだと言えばおばさんなのだ。体重だって、それが何キロだろうと、オーバーウェイトとみなすのは本人次第だ。

逆に、何キロだろうと何歳だろうと、「まだまだイケる」と思いこんでしまうこともある。

しかし、体脂肪率は客観的な数字だ。自分の体の何割が脂肪でできているかがはっきりわかってしまう。相当な精神的ダメージである。

何度も何度もダイエットらしきものを決意して、最近ようやくわかったことがある。ダイエットとは、知ることだ。ランダムな知識を詰め込むのではなく、体の状態をつぶさに理解すること。

体脂肪率は何パーセントか、基礎代謝量は何キロカロリーか、何を、一日に何グラム食べるべきか、どんな運動をどのくらいの頻度で何時間するか。すべてに、その時々の正解がある。それらを把握しなければ、健康的に痩せるのは不可能だ。


とはいえ、去年あたりまでは食べなきゃ痩せた。

もちろん、暴飲暴食すれば太ったが、どんな状態からであろうと、普通に生活すれば適正体重に戻っていった。だからダイエットとは、「漠然と食べるのを我慢する」ことだった。

でも今はそうじゃない。食べなければ代謝が落ちて脂肪がつくし、運動しなければ筋肉が落ちて脂肪がつく。すべてがfになるとはこのことである。

今までそうならなかったのは、若さが代謝量と筋肉量を勝手に維持してくれたからだったのだ。そして、その件に関して言えば、私は既に若さを使い果たしたらしい。


そういうわけで、ホームズが運動のための運動はしてないというのは、ワトスンの勘違いだと思う。ワトスンが見てないだけで、寝室でこっそりロングブレスダイエットとかやってたはずだ。サー・イアンにはぜひその辺の事情を赤裸々に演じていただきたい。

2014年

8月

23日

人形劇「シャーロックホームズ」は、ちゃんとホームズだ

人形劇「シャーロックホームズ」がすごく面白かった。

面白かった、だけでは終わらず、録画して何度も観てしまうほど、好きになった。

人形が演じ、学園ものに変換されているにも関わらず、「ちゃんとホームズ」だからではないか、と思う。

 

15歳の少年に設定された人形を「ちゃんとホームズ」と感じる理由を一言でいうと、「リア充じゃない」ことではないだろうか。リア充といってもさまざまな定義があるのだろうが、ここでは「コミュニケーション力があり、人付き合いに長けた」人物としておきたい。

私がホームズに出会ったのは、小学校の図書館だった。

同級生の大多数がケイドロやらドッジボールやらに興じる休み時間、一人で毒々しい表紙の本をめくっている小学生はなるほどリア充とは程遠いが、そういうことだけでもない。

一人で物語の世界に没頭する時、人は皆、社会生活から切り離される。一人ぼっちで、未知の世界に放り込まれる。だから、「非リア充」として物語の登場人物と出会う。自意識が確立していない子どもは、特にそうなのではないだろうか。クラスではジャイアンや出木杉くんの立場にいる子も、のび太に感情移入できる。

物語の世界の中にも、現実世界と同様にリア充も非リア充もいるが、ホームズとワトスンは絶対に「クラスの中心的存在」ではない。そこは、子どもの少ない社会経験においても重要なポイントだ。微妙なポジションで生きる子どもを、人形が人間以上に繊細に表現している。

 

そして「ホームズ」は、影の世界の物語だ。主人公二人はどちらも孤独だし、依頼人たちはもれなく困って、弱って、人生の暗い時を生きている。

しかし、影の世界にも冒険があり、笑いがあり、友情がある。

子どもたちの求めるものは、光のあたる教室や運動場にはない。授業中の静かな保健室、何年も使われていない部室、立ち入り禁止の区域、忘れられた飼育小屋。そして、子どもたち自身が主人であり王である、「寮の二人部屋」としての221B。

役者も舞台も、非の打ちどころなく「ちゃんとホームズ」なのだ。

 

三谷幸喜脚本ならではの、温かですっとぼけたユーモアも大好きだ。

個人的に嬉しかったのは、「まだらの紐の冒険」でロイロットにしらをきるホームズが「寒いとね、クロッカスが綺麗に咲くらしいよ」と言うところ。

ここは原作にまったく忠実なのだが、子ども時代の私が声を上げて笑った箇所だ。

私が生まれるずっと前に、ホームズという作品への言及はシャーロッキアーナという学問に昇華されてしまったが、ここは「『緋色の研究』で園芸に興味を持たないと書かれたはずの彼がどうのこうの」ではなく、単純に「ツッコミ待ちだ」と思っている。三谷幸喜に拾ってもらえて嬉しい。

できれば「赤い輪」で新聞広告を探すホームズの「 『日ごとわが心は君を思いこがれ……』何をたわけたことを!」という一人ツッコミも使ってもらいたい。焦って道具を見つけられず、ポケットからガラクタを出してはポイポイ投げるドラえもんにそっくりで、この場面もかなり笑った。

 


2014年

8月

14日

私の思い出のマーニー

盆休みも中盤。アパートの駐車場に出たら、近所の小学生に、出会い頭にいきなり「思い出のマーニー」のオチを言われた。

お母さんが「それは『ネタバレ』といって、たいへんいけないことなのだ」と叱っていたのが少し面白かったが、原作未読の私としてはこれ以上ネタバレされないうちに観たほうがよさそうなので、その足でレイトショーに行くことにした。

 

私はなぜか壮大な話が苦手な子供で、どんな映画が好きか、と聞かれると、「なるべく何も起こらない話がいい」と答えて大人を困らせていた。特に、映画の面白さは劇中の爆発の規模に比例すると思っている父は、娘の嗜好の掴みどころのなさに困惑したらしい。

具体的に言うと、ジブリ映画では『ナウシカ』や『もののけ姫』よりも『トトロ』や『魔女の宅急便』が好きだ。

『マーニー』は、何も起こらないけれど、主人公から見える世界の何もかもが変わる話だ。たぶん、杏奈と同じ世代の子供の多くが、こういう劇的な世界の変化を待っている。

杏奈は悩んでいる。冒頭でいきなり鉛筆をへし折るくらいイライラしてる。ナイフみたいにとがっては触るもの皆傷つけた、とはこういう状態だ。

何もしなくては何も変わらない、だから行動しなさい、と行動できる人はいう。でも、行動できない人は、動けないから悩んでいるのだ。それでいいと思う。悩んでいるだけでも、頭の中では次々に変化が起こる。空に嵐が来て晴れるみたいに、海に潮が引いて満ちるみたいに。ちゃんと、自分の世界は動く。何もしないでぐだぐだ考えているのは、苦しいけれど、決して無駄な時間ではない。

悩むのはやめて、とか、あなたはひとりじゃないよ、と言ってくれる人はいたほうがいい。でも、一人きりで思う存分悩むのも、必要なことだ。

これは私の解釈だけれど、助けやきっかけを与えてもらったにしても、杏奈は一人でちゃんと悩み終えたんだと思う。

 

ところで、夜10時を過ぎると映画館が入っているショッピングモールが閉まってしまう。開放されている出口はひとつしかないので、反対側の駐車場を利用した場合、巨大な建物をまくように半周歩かなくてはならない。カップル客ならそれも良かろうが、女一人客は舌打ちしたくなる。

カップルの皆さんの邪魔をしないように、かつ、これからご出勤と思われる暴走族の皆さんになるべく近寄らないように、結構な距離をウォーキングして駐車場に戻ると、私のほかにもう一人いた女一人客が、なぜか前を歩いていた。

彼女が私のマーニーだと思う。たぶんイオンモールから離れられないと思うので、声はかけなかった。以上が今年の私の夏の思い出である。

 

2014年

8月

12日

スプーンおばさんの女子力

NHKで朝放送している「あさイチ」という情報番組がある。昨夜「夜だけど…あさイチ」として放映されたので、なんとなく観ていたら、「家庭内別居」というディープなテーマだった。

 

まともに話を聞いてもらえず、人間としての尊厳を失っていく奥さん。

仕事だけでも辛いのに家でも安らげず、居場所を失っていく旦那さん。

私は独身なので、どちらの言い分も一理あるように感じて、観ていて2人分辛い。さらに、そんな環境で暮らさなければならない子供の気持ちを思うと3人分辛い(いずれも、1人分が当事者の何億分の一ではあると思うけれど)。そりゃ別れた方がいいだろうよ、所詮別々の人間なんだから、我慢なしで快適に生きてこうなんて無理なんだよ、もう皆別れちゃえよ、と世知辛い気持ちになっていたところで、今日群馬テレビで、アニメ「小さなスプーンおばさん」第一話の再放映を見た。

 

スプーンおばさんは、頭が固くて怒りっぽいご亭主と暮らしている。

洗濯中突然小さくなって、洗濯ものの下じきになってしまう。

おじさんは、妻が小さくなったことに気づかず、突然いなくなったことにぷりぷりしながら仕事に出かけてしまう。小さくなったおばさんは必死で洗濯ものの下から出てくるが、第一声が「たいへん、これじゃお洗濯できないわあ~」である。

夫の無理解とか家事労働の理不尽とか、そこにはない。いや、あるかもしれないんだけど、おばさんにそういう発想がないので、存在しないことになる。

結局おばさんは、動物たちの力を借りて(小さくなると動物と話ができる。こちらも結構なミラクルだが、おばさんは『あんた私の話がわかるのね。ちょうどいいからこのかごを押してちょうだい』とあくまで洗濯最優先)、洗濯を完遂する。

 

おばさんは、時々小さくなるという事実をおじさんに隠している。

その理由を私は知らなかったのだが、「あの人は気が小さいから、小さくなった私を見たら腰を抜かしちまうわ」と言ったきりだった。

結局、病院にも行かず、警察にも知らせず、ダンナにも相談せず、「今日はいろいろあって楽しかったわ~」で第一話は終わる。

 

おじさんは、休みの日に1人で釣りに行ってしまったり、むっつりして朝ご飯を食べなかったり、なかなか家庭内別居の素質がある感じなんだが、おばさんは一切気にしない。

いつ小さくなるかわからないというリスクを抱えながらも、おじさんの失くした帽子を探してあげたり、好物のジャムを作ってあげるために野イチゴを摘みにいったりするのだが、全然「夫のために割を食ってる」感じがしない。

勝手に行動して、勝手にトラブルを起こして、勝手に解決する。

一話につき確実に二~三度は死の淵に立たされてる気がするが、最後はいつも「今日も一日楽しかった!」で終わる。

 

何というかもう、ダンナどうこうではなく、人間として強いのである。言い換えると視野が狭くて自分勝手で鈍感なのかもしれないが、とにかく強いのだ。

そして、ダンナとして一切いいとこがなさそうなおじさんは、なんだか可愛い。

おばさんには「大きな赤ちゃん」などと言われているが、おじさんはおじさんで、この奥さんにはわかってもらえないような繊細さや神経質さがあると思う。細かいことはわからないが、引きでみると、頑固な亭主と陽気な奥さんで「お似合いの夫婦」だ。

 

漫画と一緒にするな、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、私は漫画の登場人物にも、見えていないところに細かい心の動きがあるはずだと思うし、逆に、細かく色々と考えてしまう現実の人間が、自分や周りの人々を、漫画のキャラクターを見るように「引きで」見ることも時々役に立つんじゃないかと思う。

私は人に厳しく自分に甘いし、邪推してしまうし、重箱の隅をつつく癖があるし、すぐに『あっちの道の方が良かったんじゃないか』と後悔したりするから、もし結婚したら、家庭内別居や離婚の種を山のように見つけてしまうんだろう。

そういう自分との付き合いもいい加減長いので、今更否定したいわけではないけれど、スプーンおばさんみたいに、なんだかよくわからないけど一日楽しかったわ~とさばさば言えるような私もいると、もっといいと思う。

 

そういえば、私は原作も愛読していた。(例によって図書館で読んだので記憶違いかもしれないが、原作のおじさんはおばさんが小さくなることを知っていたと思う。アニメも後半はそうだったかもしれない)

小学生の頃の記憶だが、唯一はっきり覚えているのが、おばさんを怒らせたおじさんが、「冷たい魚だんごとジャガイモの皮」しか食べさせてもらえない、というくだりだ。

冷たい魚だんごがどんな料理なのか、未だに気になっている。ジャガイモの皮に関しては、おじさんのために誤訳であってほしいと祈りたい。

何の話だかわからなくなったが、まあスプーンおばさん夫婦にも色々あるのだ。多分。

 

2014年

8月

02日

京都の猫

鴨川沿いのホテルに宿泊。蝉時雨で目がさめる。

ホテルの朝食をしっかりいただいて、鴨川をちょっと散歩。

部屋に戻ってだらだらとワイドショーを観てからチェックアウト。

荷物を預けて、さまざまな路地をてくてく歩く。

Rさんは猫のように、たくさんの小さな道を知っている。私は京都には何度か来ているけれど、団体旅行が多かったので、こうして自分の足で歩くと、車で巡ったお寺や神社の間を線でつないでいるような気持ちになる。地元のRさんにもそういう感覚があるらしく、何度か「ああ、わかった」と呟いていた。

地元は車社会なので、おいしいものや綺麗なものに次々と出くわせる街を歩くのは、とても楽しい。いよいよ疲れたら、いつでもバスやタクシーに乗れるのもいい。ホームズが歩いたロンドンも、こういう感じだろうか。

気が付くと、おいしいパンをたくさん持たされて、子猫が親猫に咥えられるようにして新幹線に乗せられていた。

 

2014年

8月

01日

喫茶店めぐり

日頃コーヒーばかり飲んでいるが、Rさんには日本茶カフェや紅茶専門店にも連れて行っていただいた。

 

日本茶は、丁寧に淹れてその味を全部引き出すと、すごくうま味が強いのだと知った。舌の両側でうま味を強く感じる気がしたのだが、調べてみたら舌の上で味覚を感じる場所が分かれているわけではないらしい。錯覚か。

それにしても旅の途中に煎茶と和菓子はいい。胃がもたれず、頭がしゃっきりする感じ。お菓子は、ご主人が日本全国からお取り寄せした7~8品から選べて楽しい。柑橘類の皮の入った、きれいな緑の羊羹を選んだ。

ソファがいくつかあるだけのそっけないインテリアだけど、とても落ち着く。ソファはほとんど窓に向いていて、お店はひんやりと静か。近所のお店の人がひっきりなしに現れては、お茶を味わって、置いてある本をめくったり、目を閉じたりして一息ついていた。

 

ムレスナでは、本当に驚いた。

アイスミルクティーが一杯1500円くらいするけれど、ケチではないがコストパフォーマンスにやたら厳しいRさんが納得していることに納得。これ一杯に、ケーキと紅茶のセット3つ分くらいのおいしさが入っている。何でも、普通の紅茶3杯分くらいの茶葉を使っているらしい。

紅茶の苦みや渋み、ミルクの臭みなどのマイナス要素を取り除いて、香り、こく、甘みなどいいところだけ凝縮したような、奇跡の一杯。

紅茶にこだわる人は、果物などの香りがついているフレーバーティーをあまり好まないと思う。それに、アイスティーじゃなくて香りが出やすいホットを選ぶんじゃないだろうか。

Rさんもホットミルクティーを薦めようとしていたのだけど、お店のお兄さんは控えめに、しかし断固としてアイスミルクティーを飲ませたがっていた。メニューにアイスミルクティーは一種類しかなかったが、お兄さんは私たちとの会話の中で、好みはもちろん、暑い中を荷物を持って歩いてきたこととか、旅行の二日目であることとか、普段はコーヒーが好きなこととか、周到に聞き出して、Rさんにはキャラメル、私には苺の風味のついた紅茶でアイスミルクティーを作ってくれた。

これが、飛び上がるほどおいしかった。交換して飲んでもやっぱりおいしかったけど、最後はやっぱりそれぞれ自分のものに落ち着いた。問診には意味があったのだ。

アイスミルクティーにはホットティーがついてくる、という変なシステムで、最初は首を傾げたが、大きなカップが渡されて、お店の人が次々に色々なフレーバーを試させてくれる。すべての紅茶に、開発した時の苦労話とか、意外な飲み方とか、物語があるのだった。

あたたかく、薫り高い紅茶を何杯も試して、話に夢中になっている間も、アイスティーのおいしさは入っている氷に全然負けない。

 

人を静かな気持ちにさせる店も饒舌にさせる店もあるが、お店の人に、お客さんに対する思いやりのようなものを感じると、どっちでも居心地がいい。よく来たね、おいしいお茶を淹れてあげるから、楽しんでいってね、という顔をした人に迎えてもらえるのは、しみじみありがたい。

Rさんはすべて心得ていて、お店の人の気持ちを潰さないようにしている。お金を払ったんだからお客なんだ、と言わんばかりの態度はとらない。へつらったりはしないけど、傲慢でも事務的でもない。してはいけないような状況で何時間も長居したり、お店の雰囲気を壊すような声で話したりもしない。ちゃんと、お客さんの役割を演じているから、お店の人も気持ちよくお店の人の役割を全うしてくれる。


ドラマで見るバーや居酒屋さんでは、お客さんが本音をむき出しにして騒いだり、酔いつぶれる場面がよく描かれるけれど、私はそういう気の置けない人間関係を築くのが苦手で、ちょっとコンプレックスを感じていた。

気が小さいせいか、変に気を廻してしまい、くつろいでね、と言われても心からはくつろげない。世の中に使う人と使われる人がいるとしたら、私はとことん、使用人側の人間なんだと思う。同席した人が頼んだものを食べなかったり(居酒屋ではよくある)、大声でお店への不満を口にしたりすると冷や冷やして、お店の人の視線を気にしている。

いつか私もオープンマインドでお店の人に甘えられるようになるのかもしれないが、遠い未来の話になりそうだ。今は、Rさんとお店の人の距離感をかっこいいと感じる。

 

 

 


2014年

7月

31日

関西へ

早起きして、東海道新幹線に乗った。

空がぱっきりと青い。雲が流れている。

京都に近づくと山が多くなってきて、雲が濃い影を落としている。ものすごく暑そうだ。

後ほど、シッター役を引き受けてくださったRさんと落ち合うことになっている。Rさんは、大阪、兵庫、京都あたりのカフェにすごく詳しい。今日は、かねてから行ってみたい、とお願いしていた梅田の「ペンネンネネム」と、Rさんお勧めの淀屋橋「オフィシナ・デル・カフェ」に連れて行っていただく。

どちらも、隅々までこだわりがつまったお店だ。

Rさんも私も、今は飲食業とはまったく関係ない仕事をしているけれど、「お茶を飲む店」がすごく好きだ。

もちろん、外で食事するのも好きだけれど、ごはんを食べる店が味に重きを置きがちなのに対して、お茶を飲む店は椅子やテーブル、壁の色、ちょっとした飾りなんかにもこだわりや誇りが感じられることが多く、それを覗き見るのが楽しい。

おいしければ汚い店でもいい、という人もいるけれど、お店にいる間は味覚や嗅覚だけじゃなく視覚、聴覚、触覚も働いているので、汚れていたり、テーブルがべたべたしてたり、店員同士大声で喋っていたりする店は、味にも集中できなくて私はちょっと苦手だ。「猥雑な雰囲気を楽しむ」という心構えさえできていれば、それはそれで良いものだが。

一時、感覚を全部預けるという意味で、本を読んだり映画や演劇を観たりすることと、誰かが演出した空間に身を委ねるのは似ている。

Rさんは印刷や製本を工夫した同人誌を作っていらっしゃって、私はRさんがデザインした本や雑貨がすごく好きだ。だから、Rさんが選んでくださったお店を訪ねるのは、私にとっては何重にも贅沢なこと。

時間が許せば、Rさん愛用の印刷所や紙のお店もちょっとだけ覗かせていただく。楽しみ。

 


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